赤色赤光

作品の向こう側にあるもの。文化祭を終えて。

2017年11月6日

文化祭が終わりました。すばらしい絵画と製作の表現が圧巻でした。たまたま友人の画家が参観してくれたのですが、大胆な色使いに圧倒されたと感想をくれました。
技量的な成果もありますが、やはり入園・進級半年余りを経て、子どもたちの心の成長が、ひとつの作品に結晶化されたと考えるべきでしょう。日々、仲間とともに集団で育んできた力が、こうして一人一人の発達へと実りつつあるということでしょう。うれしいことです。

数々の画題がありました。年長には、みほとけさまや中央公会堂などいろいろなテーマを描いていました。どれもよく描けているのですが、観察画であれ、空想画であれ、子どもたちの作品にはそのテーマの向こう側に深い奥行きを感じます。
そもそも子どもの表現とは、対象を上手に描くというより、そこに投影された自分自身を描くということでしょう。まだ十分認識されていない自己の内面が、表現を接面として立ち現れる。なぜその色を使ったのか、なぜそのアングルで描いたのか、言葉では説明できないが、そのように表現をした「意図」が作品には無意識のうちにこめられているものです。そこには、「わかる/わからない」という教育の二分法にはない、「わからなさからの気づき」があります。

教育学者の汐見稔幸さんがこう述べています。
「子どもの内面には、善ややさしさ、共感へ向かおうとする原想い(げんおもい)と、悪意や憎悪に向かおうとする原想いが未分化な形で出口を探しています。未分化のまま出て来る内面のエネルギーが外在化するとき、素朴な「表現」が生まれるのですが、そのとき大人がその表現を「善く」見ようとすることで善さのほうが外に出る水路を拡げられ、その子の「表現」自体が「善さ」に色付けられるという構造があります」(「天才は学校では育たない」)

ですから、子どもの作品は、先生や親という回りの大人の受容があって、初めて完成に近づきます。表現されたものへの絶対的な感動や共感があって、子どもたちは自己表現への道筋を徐々に整えていく。他者との交感を通して、自分自身の存在感に気づかされるのです。そこから、表現することはよろこびであるという大きな肯定感情を育んでいくのだと思います。
これは絵画や製作だけの話ではありません。子どもたちのこれからの人生という表現にも通底する、わたしたち大人のたいせつな役割なのだと思います。

ページトップへ