赤色赤光

いのちの理由。親子が出会った縁を感じる。

2018年4月23日

今日、幼稚園では少し早い大型鯉のぼりをみんなで作製しました。抜けるような青空にゆったりと泳ぐ鯉のぼり。その向こうに生玉の緑がきれいに映えて、ほんとうに気持ちのいい季節となりました。

来週、御忌大会で年長5歳児が歌う「いのちの理由」(さだまさし作)にこんなフレーズがあります。

「私が生まれてきた訳は、友達みんなに出会うため」あるいは「愛しいあなたに出会うため」、さらに二番では「どこかの誰かに救われて」「どこかの誰かを救うため」と続きます。

日本人のいのち観=私のいのちは自己が所有するものではなく、他者や世界との関係性の中で育まれる、あるいは、そのお陰で生かされている、という感覚をよく言い表していると感じます。

生命とは寿命のあるものですが、いのちに時間の制御はありません。仏教ではいのちは独立自存しているのではなく、すべての関係性の賜物であり、一人固有の生涯で完結するものではないと考えます。冬枯れた大地に春の花が咲くように、いのちは循環しているのです。

親子もそうではないでしょうか。親は子があって親になるのであり、その子もやがて人の親になります。そうやって連綿と育まれてきた家族の物語は、いのちを間近に感じる尊い時間なのだと思います。あえて申し上げれば、幼稚園という場所は、新たな世界と仲間の中へ参入しながら、改めて親と子として出会ったこの縁を感じなおす、そういう役割を担っているのかもしれません。

「しあわせになるために 誰もが生きているんだよ

悲しみの海の向こうから、よろこびが満ちてくるように」

 

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