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思いやりは当たり前ではない。ありがとうのこころ。

秋田光彦園長が、幼児教育の視点からつづります。(プロフィールを見る

初の防災訓練。たいせつないのちを守るために。

カテゴリ:赤色赤光|作成日:2017年07月10日
  本日は1学期の終業日、初の防災訓練を全園挙げて実施しました。園庭(年長)、講堂(年中)、体育館(年少・最年少)と会場を分けて、園児と保護者全員参加の圧巻の訓練でした。 耐震化のための園舎リニューアル工事を終えたのが3年前、昨年度から「こころの防災」を園職員の新たな目標として打ち出し、今年度は、当園の災害時における行動指針やこころの防災7か条を制定するに至りました。今日の訓練はその核となるもので、当園にとって初めての試みでした。 驚いたのが、子どもたちの意識の高さや行動の早さでした。年長のクラスでは実際に机下に避難するシミュレーションを行ったのですが、その迅速さに驚き、年中では防災標語として知られる「おはしも」(おさない・はしらない・しゃべらない・もどらない)を掲げたところ、前知識なしで十分認識されていたのです。恐らく現代を生きる子どもたちは、防災感覚というようなものを無意識に身につけているのかもしれない、と感じました。  保護者の皆様には、災害時における行動指針とこころの防災七か条を配布いたしました。私たちの防災に対するミッションであり、決意表明です。その第1項にこう掲げました。 「当園では、保育活動中に災害発生した場合、まず在園児の生命の安全確保を最優先し、状況に応じて的確に保護者への引き渡しを行うため、この指針に従って行動するものである」 文面を読めば当然のことかもしれません。しかし、本当に「生命の安全確保を最優先」するために、私たちに何ができるのか(あるいはできないのか)、これからもっと深く掘り下げていく必要があるでしょう。また、その意識づけとして園内ではどのような教育が可能か、幼児に向けた防災教育についても考えていかなくてはなりません。まだまだ課題は多いのです。  今日の訓練のように、「安全に引き渡す」が、私たち園の最低限の責任です。420もの尊い生命を守るため、幼稚園にできることをこれからも学び、また実践していきたいと念じてやみません。 次回、大人向け防災教育として、防災専門家による講演会を開催したいと考えています。    知っている、理解している、で終らない、体験を通した学びを今後も追求していきたいと考えています。  
執筆:ウェブ管理者

ののさまを、畏敬する。主体のこころを育む

カテゴリ:赤色赤光|作成日:2017年07月08日
  最年少、年少の子どもたちは、毎朝のお勤めで、こんな仏讃歌を謳います。  歌詞の1番は「ののさまは、くちでは なんにもいわないが、ぼくのしたこと しっている、しっている」、2番は「あなたのしたこと しっている」です。  「ののさま」とは仏を敬う幼児語ですが。古語辞典をひくと神仏や大自然、先祖など畏敬の対象をいいます。子どもにとってはまず幼稚園のあちこちにある仏像や仏画を指すのですが、もうひとつはこの歌にあるように目には見えないけど、いつもそばにいて見守っていてくれている大きな存在、という受け止め方をしています。親とか先生のような保護者、監督者とは違って、自他の区別なく、子どもの心の中で一体化しているような感覚です。  彼方で誰かが見てくれている、という幸せ。その安心と信頼があって、だから、自分を抑えることができる。言い方をかえると、大きなまなざしを意識することで、これだけはすまい、やりたくてもやらないという慎みを育むのだと思います。  子どもどうし、腹を立てるようなこともあります。手が出そうになったけど、いつも見てくれているののさまを近くに感じて、ここでケンカしたらののさまが悲しむなあ、と思い、自分をこらえる。そういう自律の心を生むのだと思います。   ところが、ののさまの記憶は、子どもが上の学校へ進むうちに、だんだんと薄れていきます。 代わって、「親に叱られる」「先生の叱られる」、挙げ句は「牢屋に入れられる」から、しない、と叱責や罰則が抑制のブレーキとなります。他律的になるのです。      そもそも子どもの道徳心とは、学校や国から指示管理されて育つものではありません。 本来は家庭や地域生活における日常の場面で、いろいろな経験を積み重ねていく中で学び取っていくもの。例えば、仏教の先祖供養などはその典型ですが、伝統的な行事や習慣を通して、目に見えない価値、ののさまへの畏敬の念を育んできたのだと思います。  いまその役割は、学校教育、幼稚園教育の担うところとなりつつあります。来年度からは小学校での道徳の教科が始まりますが、果たして道徳とは教えるものなのか、テストで評価できるのか、なかなかむずかしいところです。いや、「教える」以前に、ののさまのような自律的な感性について考えられているのでしょうか。  幼稚園は最初の学校ですが、小学校の先取りではありません。勉強より生活習慣だし、個人より集団です。テストや評価はありません。学科という概念もない。それよりもまず他者とともに生きることのよろこびと、そのためのルールを「教わる」のではなく、経験を重ねて(楽しく)習慣化していくところに目的があります。  どの教室にも仏壇があり、毎日お勤めを欠かさない。新年度は花まつり行事で始まり、卒業は音楽法要で執り行われている。担任の先生は、子どもたちにののさま(仏さま)の教えや言葉について語りかけます。  道徳教育などと声高には言わないが、パドマの教育は、ののさまを畏敬する、自律のこころを育んでいるのです。  
執筆:ウェブ管理者

記憶の中の先生へ。実習生がんばる。

カテゴリ:赤色赤光|作成日:2017年06月26日
  この季節、私の幼稚園では若い教育実習生を迎えます。短大であれば2回生、4年制であれば3回生が一定期間、割り当てられた教室で子どもとともに保育実習に取り組みます。 何年か前の実習生の中に、当園の卒業生がいました。短大生ですが、聞けば一旦4年生大学を出て就職したが、先生になる夢捨てきれずまた資格取得のため実習に臨んだとのこと。しっかりした学生でした。 20年以上前のことなので、幼稚園はすっかり変わっていて、さすがに当時を知る担任は在籍していないのですが、総幼研でインストラクターを務めているE先生が「え、あの○○ちゃん?」と気づいてくれたのです。E先生が年少の担任をしていた現役時代、彼女は他のクラスの在籍ではあったけれど確かに記憶に残っていたのです。驚きました。E先生は、「○○ちゃん!」と、実習生の顔を見る前から下の名前を言い当てたのです。 こんな話も聞きました。ある日、実習生のクラスに亡き学園長が訪れ、子どもたちの歌の指揮を買って出たそうです。もちろん、老齢の学園長にはその実習生が誰か、知る由もありません。しかし、彼女にとって、老いてなお指揮する姿は20年前と何ら変わらず、なつかしさに胸が詰まって涙を抑えることができなかったそうです。 いつの時代も少女たちが憧れる花形の職業であるように、すべての園の先生は、自らの意思でこの仕事を選びます。ただ「選ぶ」というのは、今どきのリクルートと少し違う。適性や条件もありますが、多くは何らかの体験、かつて自分が園児だった時代、どんな先生に育てられ、どんな幸福を感じていたか、その原初の記憶に根ざしているように思います。 例えば私も、大学の指導教官の下の名前は忘れかけていますが、半世紀以上前担任してくださった幼稚園の先生ははっきりと記憶しています。何かを教えてもらった、指導してくれた、というより、先生は両親以外に初めて私のそばにいて無条件に寄り添ってくださった人だからです。記憶とは、授けてもらった知識以上に、共体験として子どもの身体に深く滲み込んでいくものなのです。 鷲田清一さんの短いエッセイにこんな一節があります。 「幼稚園の先生はいつもいっしょに歌って踊って楽しそうだったが、学校の先生は音を外すと、動作がばらばらになると顔をしかめる。それを見て、楽しかろうはずがない。教える人はほめなくていい。うれしそうにしていれば、というより心底うれしければそれでいい」(おとなの背中)。 いま、何でも記録が重視されます。子どもの成長といい成績といい、記録がまるでその証拠であるよう重宝されます。しかし、こと幼小教育において、記録以上にたいせつなものは身体に滲み込む記憶であることに違いはないでしょうか。 記録が正確に再生できる事実であるのに対し、記憶とはその人の人生の中で幾度も書き換えられていきます。「きびしい先生だったが、今思い起こすと大事なものを教えてくれた」というふうに、記憶は生涯欠くことのできない物語なのです。 記録は紙にせよUSBにせよ、媒体が尽きれば消去されます。しかし、記憶は一生身体に深く留められる。かつて少女時代、たいせつにしてきた記憶を取り出しながら、今先生となったあなたもまた、誰かの記憶に残る先生になっていく。なんとありがたいことだろう。そんな風に思うのです。(RE)      
執筆:ウェブ管理者

網の目は他の網が成り立つために役立っている。クラス会終る。

カテゴリ:赤色赤光|作成日:2017年06月02日
 この火曜日、最年少、年少のクラス会が終わりました。クラスごとに、ほとんどのお母さんに出席いただいて、担任の話を聞いたり、自己紹介したり、最後はみんなで給食の試食をしたり、楽しいひと時を過ごしました。  中には、こんな声もありました。 「家ではまだぐずりますが、幼稚園では楽しそうで安心しました」 そもそも家(ホーム)と幼稚園(アウェー)は違うもの。子どももその違いを生き分けています。ホームでは親子の愛を独占し、アウェーでは仲間との愛を分かち合う。その違いを楽しめることが、幼稚園生活を満喫してくださる第一歩だと思います。  子どもたちが園生活で成長していくように、クラスもまた日々「成長」していきます。私からは、同じクラスに巡り会ったお母さんどうし、「ご縁を育む」大切さを申し上げました。一人ひとりの生まれも育ちも違うのに、同じ年に同じ幼稚園に、しかも同じクラスに集うこの出会いは、「誰か」からのはからいとしか言いようがない。その目には見えないつながりを、仏教では「縁起」(ご縁)として大切にしてきました。  仏教には、偶然とか奇跡というものは存在しません。すべての関係性は、ある因果に基づき、なるべくしてなったのであって、そこには人間の意識を超えた大きなはからいがあります。だから、出会いのご縁をよろこぶのですが、ただしそのご縁を持続して、熟していくのは当人たちの意識やはたらきが必要です。  子も親も、いろんな個性があります。いろんな感情もあります。それらをよく調え、ひとつのオーケストラのように楽曲を奏でる。顔も姿も違う私たちが、そのご縁を確かなものに育んでいくには、一人ひとりのお母さんの思いやはたらきかけが必要なのです。子も親も、その不断の努力を1年間、積み重ねて、はじめてクラスは本当のクラスとして一体のものになっていくのだと思います。    仏教聖典には、こうあります。 「網の目が互いにつながりあって網をつくっているように、すべてのものはつながりあっている。網の目は、他の目とかかわりあってひとつの目といわれる。網の目は、それぞれ、他の網が成り立つために、役立っている」 クラスもまた、ひとつの網。だから、誰もけっして欠いてはならないのです。 (Re)  
執筆:ウェブ管理者

思いやりは当たり前ではない。ありがとうのこころ。

カテゴリ:赤色赤光|作成日:2017年05月22日
  当園の代表的な活動のひとつ、本堂参詣が始まりました。大蓮寺の本堂で、お勤めや仏讃歌を歌い、その後、園長の法話を「聞法」します。大きな仏様がいらっしゃる広い本堂では、30分間、ほぼ正座のまま。年長児だけの、厳かで、たいせつな時間です。  今年の年長の学年目標は「道徳心を育てる」。私もそれに倣い、子どもたちにこんな話をしました。  「〈ありがとう〉ということばをかけられたら、どんな気持ちになりますか。そう言われて、怒ったり悲しんだりする人はいません。〈ありがとう〉はとても簡単な言葉だけど、それを言う人も聞く人も、気持ちがよくなったり、うれしくなったりするものです。  逆に〈当たり前〉だと思っていると、人は〈ありがとう〉とは言わないものです。  今日だって、食卓に行くと、朝ご飯ができていましたね。毎日幼稚園まで自転車で時間通り送ってくださいましたね。お父さんお母さんが心をこめて毎日努めてくださっていることは、もう〈当たり前〉になっているので、〈ありがとう〉とは言いません。  では、きみたちが熱を出して寝込んでしまった時、誰が助けてくれますか。病院や薬を用意してくださって、ずっと看病してくれるのもお父さんお母さんですね。親子であればそれが〈当たり前〉のことだけど、心の中には〈ありがとう〉が芽生えているはずです。  いえ、何かしてくれたから〈ありがとう〉ではありません。幼稚園にいる時は、お父さんお母さんはいないけど、お家でも職場でも、「今頃どうしているかな」「楽しんでいるかな」ときみたちのことに心をかけてくださっています。そう思ってくれている、お父さんお母さんにも〈ありがとう〉ですよね。    み仏さまは、いつもきみたちのことを見守ってくださっています。子どもだけじゃない。お父さんお母さんのことも見守ってくれています。よいことをしても悪いことをしても、元気な時も泣いている時も、どんな時もあなたのことを見守ってくださっているのが、本堂にいらっしゃる阿弥陀さまです。  そんな阿弥陀さまにも、〈ありがとう〉と言いたいですね。み仏さまへ〈ありがとう〉は、「南無阿弥陀仏」という言葉です。みなで一緒にお唱えしましょう」    人は生きているのではない、生かされている。子どもはつくったのではない、授かったのだ。仏教ではそう教えます。〈当たり前〉のことが〈当たり前〉でなく、大いなるみ力、はからいによって出会ったのだと気づけば、この縁に〈ありがとう〉といわないではいられません。  教室に帰ってから年長の子どもたちどうし、そのことでひとしきり話し合いがあったそうです。  「先生、思いやりもやさしさも、〈当たり前〉とは違うね」  そんなことが言える年長児がたのもしく感じられました。        
執筆:ウェブ管理者

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