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意欲や思いやりは、話し合いだけでは生まれるのか。

2013年11月6日

日経新聞の教育面(1018夕刊)に、小学校でのいじめ防止や学力向上のため、児童の積極性や協調性を育む取り組みについて紹介されていました。

ある小学2年生の「仲良し集会」。「皆が仲よくなるための具体的な工夫」について、ふたつの対立した意見についてみんなで話し合う。司会も児童が担当。できる限り子どもが主体的に運営する学びのあり方だそうです。校長先生曰く「さまざまな意見の中から合意形成を目指す習慣をつけることで、積極的で思いやりのある児童が育つ」。これは学業の好影響にもつながっているといいます。もちろん異論はありません。国も今年はじめて指導法をまとめた冊子を教育現場に配っているといいますから、ますます「合意形成」を図る「話し合い」が進んでいくと思うのですが、少々ためらうものを感じます。

そもそも子どもの意欲や思いやりは、話し合いで、つまり言語関係でつくりだせるものなのでしょうか。理解や説明能力のまだ乏しい児童に、言語能力を優先させることが、児童間の偏りをうむことにならないでしょうか。

パドマ幼稚園の推進する総合幼児教育も、目指すところは同じ「意欲」「思いやり」の形成にあります。ただし、理解や説明は一切行わない。子どもたちの話し合う場面は、必要な場面においてはあっても、全体の教育活動にはない。話し合いは個別の関係や能力が問われますが、少なくとも幼児期は個々の関係を取り上げるのではなく、飽くまで集団の関係を引き上げるからです。例えば日課活動。音読や素読、フラッシュカード等何であれ、言葉は意味ではなく、むしろ声の源です。ひとりの声が多数の声と響き合い、全体を醸し出す。一人一人の幼児を夢中にさせるのは仲間の声による「後援」であって、仲間にがんれれと励まされているわけではないのです。仲間の声と自分の声が重なりあい、ひとつの大きな声の渦になる。自分はひとりではない。みんなとつながっているという心地よい一体感が、子どもの身体にともにあるよろこびを育んでいくのです。共同体感覚といってもいい。

「合意」には、合意すべき意味やそこに到る筋道が必要ですが、こと幼児教育に限っては、頭で考える合意ではない、もっと身体的な納得が必要ではないか、と思うのですがいかがでしょうか。子どもは本来仲間をもとめています。つながりたがっています。その本性的な欲求を充足することなく、果たして小学校で「話し合い」で「合意形成」が促せるものなのかどうか、やや疑問を感じてしまうのです。

もちろん、小学校の先生方のご努力やご苦心は十分承知しています。また、話し合いだけではない、さまざまな場面で意欲や思いやりの発露はあることでしょう。しかし、敢えて申し上げるのですが、小学校の授業のありかたの根本に、とくに幼少期の身体による合意(共感)の見落としがあるのではないか、とふと感じてしまうのです。

 

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