赤色赤光

幼稚園1ヶ月。あなたに見守られている、という安心。

2009年5月1日

  幼稚園の最初の4月が終わろうとしています。小さな子どもたちも、だんだん園生活に慣れてくれた頃でしょうか。それでも、朝の登園時、玄関ホールでは親子の小さな別れの場面がつづいています。長い廊下をふりかえりながら、見送りの父母に手をふって、神妙な顔で教室へ歩む姿。ずっと背中を見つめてくれていた親の視線に安心したのでしょう、教室では、誰の手も借りずに、ひとり制服を脱ぎ、畳み、小さな手でハンガーにかけている。それだけで、ものすごくおごそかなものを感じてしまうのは、私だけでしょうか。

哲学者の鷲田清一さんが、このようなはじめての幼稚園の送迎の場面を紹介して、「不思議なことですが、(親に)見守ってもらっているということを確認することで、(子どもは)逆にその人に背を向けて一人になれる。そういうことが私たちにはしばしばあります」と述べています。子どもに限りませんが、大きな愛にしっかり支えられているという安心が、その人の意欲や挑戦を掻き立てるものです。

 人は自分ひとりで生きているのではありません。さまざまな他者との関係で生かされていくのですが、人間の原初にあって、子どもが生を自覚していくのは、身近な大人のかかわりに依るところが大きくなります。大好きなお父さんお母さんが見守ってくれている。そういう存在に対するゆたかな承認が、その子の「生きている」リアリティを育んでいきます。

 入園したてのわが子に、「もっといい成績を」と願う人はいません。「毎日元気に幼稚園に行ってくれている」それだけで充分であり、それが子どもの存在の自覚、言い換えれば自分は生きているというよろこびの種子をつくっていくのだと思います。親からあれこれ期待されたり、要求されたり、逆に過保護に傾けば、子どもは自分で生きようとする本来の自立心を阻まれていきます。

 幼稚園は、全体とのかかわり中で自分を育む場所です。そこでの見守りは、親のそれとは異なり、自分だけに与えられているものではない。誰に対しても惜しみなく、分け隔てなく注がれているものです。皆が愛されているという実感は、愛を独り占めするのではなく、他者と分かち合い、助け合うという心を育みます。ですから、幼稚園の教師の役割はひじょうに深い意味をもっていると思います。

 玄関で待ってくれている先生、手をつないでくれる先生、教室で迎えてくれる先生、笑顔で「○○くん、おはよう」と声をかけてくれる先生…その見守りは、飽くまで全体を包みながら、その中で一人ひとりに届けられるものでなくてはなりません。私だけでない、皆に公平に与えられる見守りがあってこそ、子どもは何のためらいもなく「幼稚園大好き」といってくださるのではないでしょうか。

 幼稚園では子どもは、家庭の子どもとは違う子どもを生きています。もちろんまず親の愛情が土台にあってのことですが、他者(先生や友だち)によって愛され、支えられ、見守られることで、自分をゆっくりと育んでいく、そういうたいせつな時間を生きているということだと思います。仏さまの幼稚園とは、そういうたいせつな時間をゆっくりと奏でていくものなのです。

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