赤色赤光

先生と師匠は、違う。日大アメフト問題に思うこと。

2018年5月31日

ここしばらく、日大のアメフトの問題で喧しく揺れています。勝ち負けの世界ではあるが、スポーツの精神の何たるやを今一度、見直すべきでしょう。

それにしてもあの監督さんの権力たるや絶大なものらしく、「白いものも監督が黒といえば黒」と盲従してきたコーチや選手も哀れです。それでも監督ですから、やはり師と仰いできたのでしょうか。

 

師匠と先生は、似て非なるものです。

先生は、学び手にとってわかりやすく教えてくれますが、師匠は必ずしも教えることを本義としません。先生は論理的に筋道を立てて教えますが、師匠の多くは、ある意味もっと体験的で直感的な育成を行います。わかりやすい例を挙げれば、落語家の師匠がそうです。弟子に稽古をつけることもありますが、芸事の基本はすべて「見て盗め」。カリキュラムもテストもありませんが、弟子は師匠の一挙手一投足を真似て学びます。

同様に小学校の先生と、幼稚園の先生も違います。前者に比べ後者は、少しニュアンスは異なりますが、師匠的といっていい。教えるのではなく、子どもとともに活動や生活をともにしながら、みんなで生きることの喜びを育見ます。何かができる、わかることよりも、一緒にやってみる、共鳴したり共感することに喜びを見出すのです。

そのために幼稚園の師匠は、動きやことば、表情や姿勢が「かっこよく」なくてはなりません。それは決して権威ではないけれど、弟子(子ども)たちにとって模範であり鑑であり、そして憧れの対象です。上からの命令や指示、強制など一切なく、ただそれに憧れて、弟子たちを感化していくものなのです。また、そうであってこそ、弟子たちの本当の自発性・主体性が芽生えるのではないかと思います。

 

スポーツの指導者も同じではないでしょうか。監督がどれほど経歴や成績を誇っても、リーダーたるものの本質は、結局その人格と品性でしかない。そう思うのです。

 

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