赤色赤光

■新年を迎えて。「変わらないもの」を深めて。

2024年1月9日

能登半島地震による犠牲者の皆様に謹んでお悔やみ申し上げるとともに、被災地の皆様には心よりお見舞い申し上げます。

新年早々、大きな災害や事故が相次ぎお屠蘇気分が吹っ飛びました。心が落ち着かず、どんな一年になるのかと不安になった方も少なくなかったでしょう。まずは被災地の皆様に心からお見舞い申し上げます。

思い出すことがあります。私が園長就任して間もない2011年3月、ちょうど卒業式のリハーサルを終えた頃に、東日本大震災が発生しました。幼稚園のテレビの前でみんなが蒼白になっていたことを覚えています。その後「こんな時に卒業式をやっていいのだろうか」「おめでとうとお祝いしていいのだろうか」という戸惑いの声も少なからずありました。
熟慮の末、私が出した決断は、「非常時にこそ日常が大事。いま目の前にあってやるべきことに粛粛と取り組んでいこう」でした。いつもの通りの卒業式を挙行しましたが、いつも通りであることが格別にありがたく、胸に残るものがありました。コロナ禍の最中も、基本は同じです。

暮らしも、子育てもまたそうです。それは日常の平穏な生活や規律ある習慣で成り立っていますが、震災によって子どもに食事が提供できなければ、十分な睡眠が保証できなければ、たちまち破綻することでしょう。
いや、非日常は震災だけに限ったことではないのです。社会の環境が激しく変わり、大人の生活意識や就労スタイルが変化することで、子育ての日常もこの数十年で大きく変容していると感じます。AIやテクノロジーの進化は暮らしを便利にするかもしれないが、日常が豊かになるというより、非日常のボールが次々繰り出され、私たちは変化に追われっぱなしではないかとも感じます。だから、日常は当たり前にあるものではなく、かなり意図的に、思いをもって過ごすという認識と態度がなければ、変化の波には非常に脆いのだということを知っておかなくてはなりません。

話は変わりますが、先日、話題の映画「PERFECT DAYS」を観ました。ドイツ人監督による日本映画で、東京のトイレ掃除を生業としている初老の単身男性の話です。そう書くと、高齢者の孤立とか不安とかを連想するのですが、映画はそういうテーマではなく、大した事件が起きるわけでもなく、男の一人暮らしの生活を淡々と描きます。彼の部屋には必要最低限のものしかなく、贅沢もしない、過剰な付き合いもしない。孤独かもしれないが、しかし不幸せではないのです。ルーティーンを生きているのです。
どうやらこの親日家の外国人監督が描こうとしたのは、変化から落ちこぼれた男の姿を通して、日本の生活に沈潜している、名もなき他者への「思いやり」「心配り」「慈しみ」といった良識ではないかと感じたのでした。現代の映画なのですが、妙になつかしい、すでに大都市では観られなくなったような情景に胸打たれました。つまり、あまりに変化慣れしてしまったこの時代において、変化を捨てることで初めて日常の尊さに気づかされるという逆説でもあったのです。

幼児教育でも同じことがいえると思います。21世紀型学力、非認知能力、アクティブラーニングなどこの数年のうちに次々と新しい概念が打ち出され、大きな変化の時代を迎えています。むろんそれは重要なことなのですが、変化への対応策に走るばかりでそれが自己目的化すると、教育の本質が見失われてしまいがちです。
人間の基礎基本の大方は日常の習慣で形づくられていきます。変化を拒否するものでないが、時に変化から距離をおいて、ルーティーンをしっかり努めることが教育には必要ではないでしょうか。ましてや幼児です。何もわからないからではなく、最も重要な心身の形成期だから、あえて「変わらないもの」を深めていく経験が必要なのだと思います。当園でいえば、仏様への祈り、運動ローテーション、日課などの日々の繰り返しです。
それらは単調でも退屈でもなく、生きるよろこびの発見であり創造であり、その分厚い基礎経験が、これからの変化の時代に向き合うたくましい心身を育んでいくと信じたいのです。

3学期は、進学や進級へのはざまであり、変化に向けての架け橋です。あれこれ急いだり、焦ってしまっては、日常が揺らぎます。何があっても動ぜずに、まず私たち大人が心を整えること。そのためには、残り少ない(現学年の)園生活の日常を丁寧に過ごし、毎日の習慣をきちんと続けること。変化の激しい時代だから、私は、そういう不断の日常が格別に尊いことのように思えるのです。

今年もよろしくお願い申し上げます。

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