赤色赤光

感謝のキャッチボール。保護者面接を終えて。

2009年10月17日

10月6日からのべ5日間をかけて、来年度の入園志願児の保護者面接を行いました。短い時間でしたが、ご両親のそれぞれのわが子への思いが切々と伝わってきました。

面接の質問の中では、私からお母さんに「わが子のどんな時に幸せを感じますか」とお尋ねさせていただきました。「寝顔」「笑顔」「肩を叩いてくれた」「風邪気味の私を気遣ってくれた」…ありふれた光景ではあるけど、人間としての根源にふれたよろこびを微笑みながら語ってくださいました(中には、思わず涙ぐむお母さんもいらっしゃいました)。

「どんな人に育ってほしいですか」とお尋ねすると、多くの親御さんが共通して、「感謝できる人になってほしい」と表現されていました。幼いわが子に親が願う気持ちにおいて、「感謝」とはいちばん共通したフレーズなのかもしれません。

ところで私たちの社会でいう「感謝」とは、「よくしてくれてありがとう」「いいモノくれてありがとう」と、たいていが何らかの見返りを伴います。「感謝」とは何らかの恩恵をありがたく感じる意ですが、高度なサービス社会では、モノのみならず人間の行為も換金可能なものとなっていますから、「感謝」は価格の一部ということもできます。逆に、「お金払っているんだから感謝されて当たり前」と、感謝の真意も「代価」として測られてしまう場面が少なくありません。

そもそも感謝の原点は、「祈り」に通じる宗教的な行為です。待ち望んだわが子が生まれてきて、感謝しない親がいないように、一つのいのちの「有り難さ」に対する深い感恩の情が根底にあるはずです。子どもは親にモノやサービスといった利益を授けてくれるわけではない。が、未来への希望という光を照らして、私たちに「存在の尊さ」「家族の絆」という、かけがえのない喜びを与えてくれているのではないでしょうか。

もちろん、だいじなわが子に いろいろな期待があって当然です。少子化の時代、願いがより大きくなる心境もわかります。しかし、何かができたその代償としてのみ「感謝」があってはなら ない。「感謝できる子ども」を願うこととと同様にたいせつなものは、子どもに感謝する私たち大人であり、家族のなかで交わされる、感謝のキャッチボールではないかと思います。

 

(昨年10月12日のブログを一部引用しています)

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