赤色赤光

蓮塾30年記念大会で、宮沢賢治を読んだわけ。

2009年12月1日

 11月29日、当園小学部蓮塾の30周年記念大会が当園講堂で開催されました。子どもたち123名総出演で、歌あり音読あり朗読劇あり…すばらしい舞台表現を披露してくれました。「記念大会」的な式典も来賓もなしの、いたってシンプルな催しでしたが、それでも約150名の保護者が埋めた会場からはあたたかな感動があふれ出ていました。

 舞台で発表された作品は、「星めぐりの歌」「風の又三郎」「どんぐりと山猫」など、多くは宮沢賢治の作品が占めました。子どもたちは賢治の作品が大好き。今では知らない人のいない賢治ですが、ではなぜ今蓮塾30周年に賢治を選んだのか、塾長として私から会場のみなさんに講話を申しあげました。

 賢治は今から110年前に亡くなった、国民的な童話作家・詩人です。しかし、彼の生前に刊行された著作はわずか2冊、しかもほとんど評価らしい評価も受けず、不治の病に侵され昭和8年、37歳で夭逝しています。岩手の花巻で農業指導に当たりながら、土と文学に半生を捧げます。出世や功名とはまったく無縁の、名もなき市井の人として生涯でした。

 有名な詩「雨にも負けず」も、じつは賢治が自分の手帳の紙片に書き記したもので、死後遺品の中から発見されます。恐らく作品として発表することは考えていなかった。当時35歳の賢治は病魔と闘い、残り少ないいのちを刻むように、いわば文学の遺言としてこの詩を書いたのでしょう。賢治の作品は、このように死の影を拭い去ることはできません。

詩の中に有名な一節があります。

 「あらゆることをかんじょうにいれず、よくみききしわかり、そしてわすれず」

 普通の人間であれば不治の病にかかれば、己の不幸に絶望するでしょう。しかし、賢治は、逆にその境地から仏教の信仰を深め、み仏のありがたさに帰依したといわれます。

 「あらゆることをかんじょうにいれず」とは、名声とか賞賛とか、そのようなこだわりやとらわれ、むさぼりの心を捨てる。自分のことを顧みず、他者のために生きることを固めた、菩薩の人としての決意表明とも読みとれます。

 なぜ、賢治を日本人はかくも愛するのでしょうか。賢治の生涯から、日本人の美徳の高みを仰ぎ見る人も多いでしょう。でも、私は、強いて言えば、現代の日本人は「私は賢治のように生きているのだろうか」という自身への懺悔に似た気持ちをもって、この作家を愛読してきたのではなかったでしょうか。傲慢で欲深く、虚栄に満ちた現代の日本人に対する、無言の叱声が聞こえてきそうです。 ↓

私は講話をこう締めくくりました。

 「会場のお父さん、お母さん。いまは分からないかもしれないが、いつかその日が来たら、子どもたちに賢治の心をわが子に語ってあげてください。賢治がどんな境遇を生き、どんな願いをもって数々の名作を書き残したのか。人間が生きていく上で、何がいちばん大切で、尊いことなのか、そのことを伝えてあげてください」

 賢治の作品を見事に読み上げた蓮塾の子どもたち。その笑顔は、賢治の文学と同様、生きることのつつましさと気高さがあふれていました。

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