赤色赤光

ことばの「手触り」について。谷川俊太郎のインタビューから。

2009年12月26日

パドマ幼稚園の教育の特徴のひとつに言語活動があります。般若心経、芭蕉の俳句、宮沢賢治の詩等々、幼児には「難解な言葉」が次々と与えれるが、それが、意味や解釈を伝えるためでなく、子どもの内なる言語感覚に滲み込ませるための実践であることは、このブログでも何度か述べてきました。

近代の言語発達観とは、言葉の意味を説明し、理解することを中心としています。まさに小学校以降の国語教育とはその発達のベクトルが中軸となっていて、カリキュラムはすべて容易なものから難解なものへと仕組まれています。だから芭蕉の俳句などは、教科書では小学生高学年にならないと扱わない。

その発達観を幼児期にあてはめると、園児に芭蕉の俳句などとんでもない、ということになります。それより、一音ずつ50音を教えましょうということになるのですが、そこに子どもに対する言語教育の誤解があります。

詩人の谷川俊太郎さんが「詩はどこへ行ったのか」というロングインタビューの中で、詩の言語性について面白いことを述べていました(朝日新聞・2009・11・25)
「(小説やエッセイのような)散文は、その社会内存在の範囲内で機能するのに対し、詩は宇宙内存在としての在り方のふれようとする。言語に被われる以前の存在そのものをとらえようとするんです」

人間は最初自然の一部として生まれ、成長するにつれ教育を受け、言語を獲得し、社会内存在として生きていくようになる。近代人とはこの社会内存在を模範とするが、それと反比例するように人間の原初のことばが失われ、詩も衰退していったのではないかと言います。

また、大量のデジタル情報が氾濫する中で、言語系が肥大化して、ことばの「割り切れなさ」が奪われたともいいます。「わかると」「わからない」の間にある、ことばの持つ不可思議性の喪失です。
「芭蕉の句にはメッセージは何もないし、意味すらもないに等しいけど、何かを伝えている。詩ではことばは音、声、手触り、調べ、そういうものが重要です」

 

パドマの言語教育の目的は、ことばを身体化することです。言語を支配してきた知能から、もう一度精神の野生に引き戻すことです。宇宙内存在としてのことばに出会わせるという意味では、もっとも詩的な活動といってもいいかもしれません。

ですから、すぐれたことばの教育とは視覚、聴覚、触覚など五感を発動させるものでなくてはならない。例えば、当園の体育教師が、体育ローテーションの際に呼び掛ける感嘆詞のようなことばに、私は谷川さんの言う「手触り」を感じます。それは言葉以前のことばでありながら、確かに子どもの内面に深く響いている。

さて、冒頭に述べた、子どもとことばの関係についての無理解には、別の遠因があります。私たち大人自身の、ことばの貧しさという問題です。
「言霊の国」といわれたこの国から、本当のことばが急速に失われていっているように思えてなりません。テレビが撒き散らす浅薄な情動言語に洗脳されて、結局社会内存在としての人間も、ずいぶんと幼くなってしまったのではないでしょうか。人が集まれば、話題は金儲けとグルメと健康だけ…では、本当のことばは欲望の陰に潜んでしまわざるを得ない。ことばに対する謙虚さは失われ、私的なツールとしての言語だけが幅を利かす。大人が何を語り、何を伝えるのか、じつは子ども以上に重大な課題を孕んでいるといえるでしょう。

2学期後半の幼稚園は、まさにこれまでの活動の実りの季節です。教室で、日本の名詩・名句に出会う子どもたちの表情は、いききとした充実感にあふれています。何かが「わかる」よろこびというより、大切なものに「出会った」よろこびといえるでしょうか。「美しく、響きがよく、ロジカルな『他者の言葉』に集中豪雨的にさらされ」(内田樹)ながら、子どもは宇宙内存在としての本当の主体性に巡りあっている。そう確信しています。

今年最後のブログです。どうぞよいお年をお迎えください。

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