赤色赤光

思いやりは当たり前ではない。ありがとうのこころ。

2017年5月22日

  当園の代表的な活動のひとつ、本堂参詣が始まりました。大蓮寺の本堂で、お勤めや仏讃歌を歌い、その後、園長の法話を「聞法」します。大きな仏様がいらっしゃる広い本堂では、30分間、ほぼ正座のまま。年長児だけの、厳かで、たいせつな時間です。

 今年の年長の学年目標は「道徳心を育てる」。私もそれに倣い、子どもたちにこんな話をしました。
 「〈ありがとう〉ということばをかけられたら、どんな気持ちになりますか。そう言われて、怒ったり悲しんだりする人はいません。〈ありがとう〉はとても簡単な言葉だけど、それを言う人も聞く人も、気持ちがよくなったり、うれしくなったりするものです。
 逆に〈当たり前〉だと思っていると、人は〈ありがとう〉とは言わないものです。
 今日だって、食卓に行くと、朝ご飯ができていましたね。毎日幼稚園まで自転車で時間通り送ってくださいましたね。お父さんお母さんが心をこめて毎日努めてくださっていることは、もう〈当たり前〉になっているので、〈ありがとう〉とは言いません。
 では、きみたちが熱を出して寝込んでしまった時、誰が助けてくれますか。病院や薬を用意してくださって、ずっと看病してくれるのもお父さんお母さんですね。親子であればそれが〈当たり前〉のことだけど、心の中には〈ありがとう〉が芽生えているはずです。
 いえ、何かしてくれたから〈ありがとう〉ではありません。幼稚園にいる時は、お父さんお母さんはいないけど、お家でも職場でも、「今頃どうしているかな」「楽しんでいるかな」ときみたちのことに心をかけてくださっています。そう思ってくれている、お父さんお母さんにも〈ありがとう〉ですよね。
 
 み仏さまは、いつもきみたちのことを見守ってくださっています。子どもだけじゃない。お父さんお母さんのことも見守ってくれています。よいことをしても悪いことをしても、元気な時も泣いている時も、どんな時もあなたのことを見守ってくださっているのが、本堂にいらっしゃる阿弥陀さまです。
 そんな阿弥陀さまにも、〈ありがとう〉と言いたいですね。み仏さまへ〈ありがとう〉は、「南無阿弥陀仏」という言葉です。みなで一緒にお唱えしましょう」
 
 人は生きているのではない、生かされている。子どもはつくったのではない、授かったのだ。仏教ではそう教えます。〈当たり前〉のことが〈当たり前〉でなく、大いなるみ力、はからいによって出会ったのだと気づけば、この縁に〈ありがとう〉といわないではいられません。
 教室に帰ってから年長の子どもたちどうし、そのことでひとしきり話し合いがあったそうです。
 「先生、思いやりもやさしさも、〈当たり前〉とは違うね」
 そんなことが言える年長児がたのもしく感じられました。
 
 
 
 

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