赤色赤光

ののさまを、畏敬する。主体のこころを育む

2017年7月8日

最年少、年少の子どもたちは、毎朝のお勤めで、こんな仏讃歌を謳います。

 歌詞の1番は「ののさまは、くちでは なんにもいわないが、ぼくのしたこと しっている、しっている」、2番は「あなたのしたこと しっている」です。
 「ののさま」とは仏を敬う幼児語ですが。古語辞典をひくと神仏や大自然、先祖など畏敬の対象をいいます。子どもにとってはまず幼稚園のあちこちにある仏像や仏画を指すのですが、もうひとつはこの歌にあるように目には見えないけど、いつもそばにいて見守っていてくれている大きな存在、という受け止め方をしています。親とか先生のような保護者、監督者とは違って、自他の区別なく、子どもの心の中で一体化しているような感覚です。
 彼方で誰かが見てくれている、という幸せ。その安心と信頼があって、だから、自分を抑えることができる。言い方をかえると、大きなまなざしを意識することで、これだけはすまい、やりたくてもやらないという慎みを育むのだと思います。
 子どもどうし、腹を立てるようなこともあります。手が出そうになったけど、いつも見てくれているののさまを近くに感じて、ここでケンカしたらののさまが悲しむなあ、と思い、自分をこらえる。そういう自律の心を生むのだと思います。
  ところが、ののさまの記憶は、子どもが上の学校へ進むうちに、だんだんと薄れていきます。 代わって、「親に叱られる」「先生の叱られる」、挙げ句は「牢屋に入れられる」から、しない、と叱責や罰則が抑制のブレーキとなります。他律的になるのです。
 そもそも子どもの道徳心とは、学校や国から指示管理されて育つものではありません。
本来は家庭や地域生活における日常の場面で、いろいろな経験を積み重ねていく中で学び取っていくもの。例えば、仏教の先祖供養などはその典型ですが、伝統的な行事や習慣を通して、目に見えない価値、ののさまへの畏敬の念を育んできたのだと思います。
 いまその役割は、学校教育、幼稚園教育の担うところとなりつつあります。来年度からは小学校での道徳の教科が始まりますが、果たして道徳とは教えるものなのか、テストで評価できるのか、なかなかむずかしいところです。いや、「教える」以前に、ののさまのような自律的な感性について考えられているのでしょうか。
 幼稚園は最初の学校ですが、小学校の先取りではありません。勉強より生活習慣だし、個人より集団です。テストや評価はありません。学科という概念もない。それよりもまず他者とともに生きることのよろこびと、そのためのルールを「教わる」のではなく、経験を重ねて(楽しく)習慣化していくところに目的があります。
 どの教室にも仏壇があり、毎日お勤めを欠かさない。新年度は花まつり行事で始まり、卒業は音楽法要で執り行われている。担任の先生は、子どもたちにののさま(仏さま)の教えや言葉について語りかけます。
 道徳教育などと声高には言わないが、パドマの教育は、ののさまを畏敬する、自律のこころを育んでいるのです。

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