赤色赤光

日本古来の伝統なんぞではないよ。映画「おくりびと」の誤解。

2009年2月25日

映画「おくりびと」がアカデミー外国語映画賞を受賞、メディアはノーベル賞並みに春の椿事を書き立てました。確かによくできた映画で、私も泣かされました。いまの日本映画の良心がにじみ出る佳品とは思います。が、これがアカデミー賞…なんぞ獲っていいものか、少々とまどいをおぼえました。

メディアでは、「日本の心」とか「厳粛な儀式」「伝統美」とか持ち上げていましたが、何も知らない外国人が(あるいは日本人も)この映画で「日本人の死生観」にふれた気になっているとしたら、それは大きな勘違いではないでしょうか。  

そもそも納棺師なる独立した仕事は、地方によってはあるのかもしれませんが、都市部ではすべて葬儀社の一部門であって、まして映画のような派手なパフォーマンスなどない。また最も重要なことは、本来死者の納棺は遺族たちの喪の作業であって、それがまるで昔からあった職人芸のごとく描かれている点に誤解が生じてしまいます。「おくりびと」は「日本古来の伝統」などではないのです。  

戦後間もない頃まで、死者は家に帰り、枕経の後、「湯灌」(死者を温湯で清める)して、「仏衣」(死装束)に着替え、「納棺」されました。これら一連は最愛の家族を喪った遺族の手によって進められてきた。なぜなら、死者を送るこれからの行為が、家族から遺族となっていく重要な儀式の一部だったからです。その後共同体の風習が薄れ、葬儀社のサービスが進化して、やがて「納棺」は外の専門家に外注されていく。「おくりびと」の背景には、日本の死生観や家族文化の衰退があります。  

映画の完成度は否定しません(広末の演技は最悪でしたが)。ピンク映画で下積みを重ねた滝田洋二郎監督、生涯最高の一本であろうとも思います。しかし「生と死にまつわる日本文化を柔らかく描いた『おくりびと』が、特に年配のアカデミー会員の共感を得たのではないか」(ロサンゼルスタイムズ)とかいう報道を読むと、どうも消化しきれない違和感をおぼえました。  

ついでに付け加えると、映画には完璧なまでに日本仏教がオミットされています。僧侶も経文もお寺もまったく出番なく、「葬式仏教」の面目丸つぶれでした。これはもちろん創り手の意図でしょうけど、それがさらにこの映画が描いたという「日本人の死生観」を平板で薄味のものとしてしまったと思うのは私だけでしょうか。

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