赤色赤光

年長児たちの知恩院参詣。「畏怖の念」を養う。

2009年2月15日

週末は、年長児たち140名のウィンタースクールでした。1泊2日の半ば卒業旅行みたいなものですが、まず京都の総本山知恩院に参拝してお礼参りを務めました。荘厳かつ巨大な知恩院の諸堂を巡り、子どもたちは何を感じたでしょうか。

そもそもパドマ幼稚園は、浄土宗大蓮寺が直営する幼稚園ですので、3年間の園生活でも子どもたちはお仏壇の礼拝(各保育室に安置してあります)やお念仏は 毎日欠かしません。年長時には全員「般若心経」もそらんじており、身も心も「小さな仏教徒」として卒業していきます。3年間、「日常の修行」を積み上げた 最後のお礼参りですから、子どもたちになりに知恩院参拝の感慨もひとしおではなかったかと思います。

私は、幼少の教育で、いちばんたいせつなも のは、人知を超えた、圧倒的なものに出会うことではないかと思っています。人間の理屈では説明のつかない、あるいは我々が抗うことのできない巨大な力。その大きなはたらきは私を圧倒しつつも、大らかにつつんでくれているという安心感。まさに仏の慈悲の力というようなものとの出会いがどうしても必要です。

現代の高度な消費社会というのは、人間の欲望を基準に形成されています。欲望を充たすことが生きることの絶対価値だとしたら、人間は儲け話以外は他者に無 関心であり、冷淡な存在になってしまいます。欲望の充足は究極の自己愛でもありますから、やがて周囲に対する信頼感や公共心に欠けた、恐ろしく孤立した社会になってしまう危惧はないでしょうか。

人間の基礎基本をつくる幼児教育だからこそ、私は宗教教育が重要だと思います。将来、特定の信仰を持た せることが目的ではありません。大事なことは、幼児期に宗教的なかたちやふるまいを通して、自ずと身についていくある種の「畏怖の念」をどう養うのか、と いうことなのです。大きなものと向き合って、はじめて気づく自分の小ささ。同時にそこを起点として、小さき人々が助け合い、支えあって生きていくという共生の原理に気づかされるのです。その感覚は、幼少期以降の教科書教育ではどうしても教えることはできないものだと思います。

お堂では、身の丈5メートルもある阿弥陀様の坐像を前に全員で般若心経を唱えました。黄金の仏からは、大らかでやさしい、慈悲の笑みがこぼれていました。

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