赤色赤光

「変わらないもの」を深めて。変化のなかで日常を生きる。

2024年3月11日

■卒業式をやっていいのだろうか
年明けに大きな地震が能登半島を襲いました。桜は咲いても、被災地の春は遠いのでしょう。心からお見舞いを申し上げます。
2011年3月、東日本大震災の発生時は、幼稚園の卒業式のリハーサルを終えた頃でした。「こんな時に卒業式をやっていいのだろうか」「おめでとうとお祝いしていいのだろうか」という戸惑いの声が少なからずある中、私が出した決断は、「非常時にこそ日常が大事。いまやるべきことに粛粛と取り組んでいこう」でした。例年同様の卒業式を挙行しましたが、いつも通りであることが格別にありがたく、胸に残るものがありました。
いうまでもなく、震災は緊急事態であり、非日常の極みです。非日常は日常を脅かし、当たり前にあったものを破滅へと運びます。ある日突然、子どもに食事が提供できなくなれば、あるいは睡眠が保証されないとしたら、たちまち日常は崩れ落ちることでしょう。日常は、非日常の前ではもろいものなのです。
いえ、非日常は災害だけに限ったことではありません。社会の環境が著しく変わって、大人の暮らし方や働き方が変化することで、子育ての日常も大きく変容しています。たとえば、家族の夜ふかしの影響で、乳児の睡眠が不規則かつ短時間となって、そのせいで赤ちゃんはイライラしたり神経質になったりしがちです。これは親の日常が、子どもの生活に非日常をもたらしているといえますね。
またAIやテクノロジーの進化は日進月歩ですが、暮らしが便利になる一方、私たちの日常が豊かになるといえるのかはいまの時点では判断がつきません。手のかかるもの、込み入ったものは、全てAIにお任せ!になってしまわないかと少し心配でもあります。お掃除ロボットがこれ以上進化したら、お家での子どもの清掃経験は必要としなくなるのでしょうか。
ですから、日常は当たり前にあるものではなく、意図的に、ねらいをもって過ごすという認識と態度がなければ、変化の波にすぐ飲まれてしまうということを自覚しておきたいと思うのです。

■不断の繰り返し
幼児教育でも同じことがいえます。21世紀型学力、非認知能力、主体性の保育などこの数年のうちに次々と新しい概念が打ち出され、大きな変化の時代を迎えています。むろんそれは重要なことなのですが、変化への対応策に走るばかりでそれが自己目的化すると、教育の本質が見失われてしまいます。
人間の基礎基本の大方は、日常の習慣で形づくられていきます。時に変化から距離をおいて、ルーティーンをしっかり努めることが教育には必要ではないでしょうか。ましてや幼児です。一番たいせつな心身の形成期だから、あえて「変わらないもの」を深めていく経験が必要なのだと思います。当園の運動ローテーション、ことば日課、あるいはお昼の準備や作法など、日々のくり返しがそれです。不断の反復があって日常ができています。
それは単調でも退屈なのでもありません。生きる喜びの発見であり創造であり、その分厚い基礎経験が、これからの変化の時代に向き合うたくましい心身をはぐくんでいくと信じたいのです。

 

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