谷川俊太郎さん逝く。ことばあそびを生きる。
2024年11月27日
24日に詩人・谷川俊太郎さんが亡くなりました。
戦後の詩壇で最も知られるこの詩人と、一度対談したことがあります。正式な年次は忘れましたが、息子が中学生の頃、地域のP T A の会長を務めており、その時のご縁で、谷川さん(と息子の音楽家谷川賢作さん)とわずかですが公開で(確かP T A の大会であったような)お話をする機会に恵まれました。何を話したかは忘れてしまいましたが、高名な詩人とは思えないほど気さくで、暖かく、また私の話を面白がってくださったことを覚えています。
谷川さんの作品は詩作のみならず、童謡や翻訳、アニメやC Mソングまで幅広く知られていますが、画期的なお仕事の一つが日本語の言葉の可能性、リズムの豊かさを「発見」されたことです。
73年の「ことばあそびうた」では、ひらがなだけで表現する「ひらがな詩」を試み、75年には有名な「マザーグースにうた」で、漢字をほとんど使わず日本語翻訳大賞を受賞しました。戦後の詩壇は、西洋の文芸を取り入れた歴史もあり、観念的で、難解なものでしたが、その裾野を一気に広げたのです。
同時に、谷川さんは日本語の音楽性、リズムについて追求していました。
例えば、有名な『かっぱ』(ことばあそび)に
「かっぱ
かっぱらっぱかっぱらった
とってちっていた
かっぱなっぱかった
かっぱなっぱいっぱかった
かってきってくった」
とあるように、谷川さんは、意味を超えて、言葉に内在する楽しさやリズムを発掘しました。「ことばあそび」という概念の新鮮さ。これも当時の文芸において画期的な仕事であったかと思います。
あるインタビューで谷川さんは
「子どものころはすごく自然にその言葉の音楽性とか、言葉の楽しさみたいなものを口にしているんだけども、小学校へはいると、だんだん言葉っていうものがわりとしかつめらしい“意味的”なものに偏してきてね、早口言葉的なおもしろさとか、そういうものは教育面ですごく無視されているでしょう。それはぼくはよくないと思うんですよ。(中略)
基本的な日本語を美しく発音してね、その言葉に内在しているリズムみたいなものをちゃんと声に出せる訓練をしてるかっていうと、そういうものはすこしもないわけでしょう」(「歌にいたる詩」)
と述べています。日本語の楽しさとは意味である前に、リズムと音読を味わうことなのです。
明治時代のある時期まで、日本人にとって本を読むとは「音読」することであり、言葉を音声化=身体化して理解をしていました(黙読が浸透するのは明治後半からです)。音読を通して、知を内面化していたとも言えます。谷川さんは、とりわけ柔軟な子どもの感性にその楽しさを伝えようとされたのだと思います。
都合よく結論づけるつもりはないのですが、パドマ幼稚園の音読の目的もまた、その「言葉の楽しさをリズムで体得する」ところにあります。
当園の子どもたちが宮沢賢治や金子みすずなど名詩・名句を音読するのは、けっして意味を教えたり、鑑賞するためではありません。谷川さんのいう「基本的な日本語を美しく発音して」、言葉に埋め込まれたエッセンスを、リズムとしてやわらかな身体に受け継いでいくためです。それこそが、日本語という文化を継承していく最も基礎的な経験ではないでしょうか。
年長児のクラスに谷川さんの絵本「生きる」があります。子どもたちに人気の名作です。
有名なフレーズを紹介します。
「生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ」
心よりご冥福をお祈り申し上げます。