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なぜデジタル教科書をやめたのか。教育はスピードではない。

2025年5月12日

去年から日本でもデジタル教科書の導入が本格化しました。授業の展開もスムーズになって、個人の興味も最適化しやすい。そんなA I時代の教室のイメージを連想しますが、世界では、特に教育先進国ほど反対に「紙の教科書復活」の兆しがあるとか。どういうことでしょうか。

 かつて学力世界一と謳われたが、凋落ぶりが激しい北欧のフィンランドでは、90年代からデジタルを導入していましたが、近年は紙の教科書復活が目立つと言います。P I S Aを主導するO E C D ではその低迷の理由を「教室が規律状況の課題」にあると分析しています。要するに教室の騒がしく、先生の話が聞こえないというのです(「世界の教育はどこへ向かうか」白井俊)。これはデジタル故の弊害なのでしょうか。

また、お隣のノーベル賞でお馴染みのスウェーデンにおいて、その選考機関でもあるカロリンスカ研究所が23年の声明で、「印刷された教科書や教師の専門知識を通じた知識の習得に再び重点を置くべきだ」と訴えたといいます。アジアではやはりナンバーワンの学力で知られるシンガポールも、23年小学生にデジタル端末を配らないことを決定したとか(以上は読売3月25日参考)。かつて「紙からデジタルへ」と世界中が舵を切る中、今は再帰現象というべきものが起きているのかもしれません。

 その理由としては、(通信環境の問題は別にして)「集中力が落ちる」「短期になる」「遊びに夢中になる」等、様々な声がありますが、私は、日本のベテラン教員がいう「紙の本から得られる思考力の深まりは、かけがえのないものだ」がしっくり来ました。「見やすさ」と「一体性」で紙に勝るものはないと思います。

このたびのデジタル教科書導入に反対を述べたいわけではありません。一部の幼稚園のI C Tを先取りした教育も否定はしません。しかし、その前に、私たちはまず紙の教科書なり教材をどれほど「深く」「じっくりと」扱えているのか、振り返っておく必要はあるのではないでしょうか。紙は熟考であり、洞察の表徴です。教育はスピードではないのです。

 パドマ幼稚園では、昔ながらの黒板と模造紙を、また音読や詩集は簡素な冊子を使い、紙の環境を長く続けています。絵本はいうまでもありません。何十年の変わらないそのスタイルは、そこに本質的なものを宿しているから、と私は考えたいのです。

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