赤色赤光

ブッダの物語。「聴く」という力が育てる心の知性

2025年10月16日

先週週間、毎日夕刻に、PEC(Vivid!)に通う小学生たちに「仏教タイム」と題してお話をする機会がありました。
年生、年生を中心に、私は探究パートナーのひとりとして、お釈迦様の生涯を描いた紙芝居を読んだり、経を唱えたり、仏教で使う楽器を紹介したりしました。その後、『杜子春』や『泣いた赤鬼』といった昔ながらの素話を語り、最後には子どもたちからの質問タイムもあり、笑顔と発見に満ちた楽しい時間となりました。

感心したのは、子どもたちの「聴く力」です。

普段は元気いっぱいに動き回る子どもたちが、物語が始まると自然に鎮まり静けさが戻り、中には正座をして耳を傾けてくれる姿がありました。映像のように次々と場面が切り替わることもなく、ただひとつの物語を静かに聴く時間——。この「心を向けて聴く」という姿勢こそ、幼稚園時代から少しずつ積み上げてきた力の証ではないかと感じました。

私は改めて、「幼少期にどんな物語に出会うか」ということの意味の大きさを思いました。
いまテレビやアニメ、ドラマ、ゲームの世界には、数えきれないほどの「物語」があふれています。次々と画面が切り替わり、スピーディーな展開で心をつかむ作品も多くあります。けれども、それらはしばしば感情を刺激するだけで、心の奥底に問いを残すような「魂にれる物語」とは少し異質なものという気がします。
お釈迦様の一生や古くから伝わる聖なる物語は、派手な演出こそありませんが、人が生きるということ、悩むということ、そして他者とともに歩むということを、静かに語りかけてくれます。子どもたちがそうした物語を「聴く」体験を持つことは、心の中に「大きな問い」を宿すことにつながります。
人はなぜ生きるのか。なぜ悲しみがあるのか。どうすればやさしく生きられるのか。それは答えを見つけるための問いではなく、人生の意味を少しずつ深めていくための問いです。
お釈迦様が若き日から苦悩し、涅槃に至るまでの道のりには、まさにそうした問いが息づいています。

PECは「エシカル(倫理)教育」を一つの理念としています。今の学校教育の中では、「倫理」はあまり扱われません。高校には「倫理・政治・経済」としてあるものの、受験にも直接関係しないため、どうしても後回しにされがちです)。けれども、人としてどう生きるかという根源的なテーマを考えることこそ、最も人間らしい知の営みではないでしょうか。

幼少期は、その人生の本質について、「聴く」「感じる」経験を積む大事な季節であり、エシカル教育の起点ともいえるはずです。面白いから、よくわかるから聴くのではなく、そうではなくて、聴いているうちに、いつかその意味や価値と出会う日がある。——そんな時間を子ども時代に持てることは、本当に尊いことだと感じ入ったのでした(ちなみに、フランスなどヨーロッパの国々では、倫理・哲学は高校教育の中心科目です)。

幼児期に育まれた「聴く力」と「静けさに耐える力」は、やがて深い思考力や共感力へとつながっていきます。心を鎮めて他者の言葉や聖者の物語に耳を傾けるという営みの中で、子どもたちは「自分とは何か」「人と生きるとはどういうことか」という問いを、まだ形にならないまま胸に宿していくのではないでしょうか。

Vividの子どもたちが見せてくれた真剣なまなざしの中に、私はその小さな芽生えを確かに感じました。それは、幼稚園で育ててきた「聴く」という習慣が、少しずつ次の段階へと息づいている証でもあります。
この静かな時間の積み重ねが、やがて豊かな心の知性となって、人生を支える根っことなっていくことを、私は願って病みません。子どもたち、ありがとうございました。

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