赤色赤光

形式美こそたいせつ。仏教公開保育で思うこと。

2013年12月3日

 福島の原発事故があって、村ごと退避する事態がありました。ふるさとを離れて不自由な仮設住宅住まいを余儀なくされる人々。すでに2年半以上が経って、ふるさとの姿さえ忘れがちになる時、避難者たちの記憶を呼び覚ますものが、村に伝承された「郷土芸能」や「民謡」であったりするそうです。郷土史のような知識ではなく、芸能とか謡の中に「儀礼化」「形式化」された記憶だというのです。

 世界中にユダヤ人はいます。見かけはユダヤ人とはわからない。だが、同じ経典を唱えることで、民族の血が共振する。彼らはそれを「形式」として何千年と継承してきたのです。それもまた、知識ではありません。

 

 2日、パドマ幼稚園では仏教公開保育を開催して、全国の仏教系の幼稚園、保育園の方々にご参観いただきました。その後、宗教学者の釈徹宗先生と対談したのですが、いったい何をもって「仏教教育」というのか、その核心のひとつが、この儀礼性や形式性にあるのではないか、という話題に至りました。

 どういうことでしょうか。郷土芸能もユダヤの経典も長い時間をかけて受け継がれて来たものです。親から子へ、師から弟子へ、なぜかというような理由や意義を問うことなく連綿と継承されてきました。何千年何百年という時間の中で洗練され、やがてすぐれた形式を生み出し、黄金律のようなものとなります。仏教の伝統文化もまた、同様に日本人の生活(生き方)の型をなしてきたのです。

 パドマ幼稚園の子どもたちが、念仏を唱え、般若心経を読誦し、一茶や芭蕉の俳句を暗誦するのも、その生き方の型を身体に埋め込もうとするからです。昔であれば、どの家庭・地域にもあったであろう共通の形式を、園生活の中で再生していく試みといっていいのかもしれません。中身の意味や意義を何ら問うものではない。必要なことは、長年受け継がれてきた「他者の言葉」なのです。

 現代人は意味を好みます。意味がなければ、意味はない。すべては自分で考え、自分で価値判断できるものと思い込んでいます。しかし、私たちは意味だけを頼って生きているわけではありません。食べる、寝るのもそうであれば、生活習慣、生きることの基本もまたほとんど意味や理解を問わないのです。
子どもにとって、形式美をどう考えるのか。仏教教育のもつ古くて新しい本質について考えさせられたのでした。

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