赤色赤光

やり方より、あり方。人間の生きる意味を学ぶ。

2014年6月3日

先日最年少つくし組のクラス会の折、2歳児たちの様子のスライドを見ながら、担任からこんな話がありました。

「入園からまだ2ヶ月足らずですが、子どもたちがこうしてきちんと椅子に座って、私の話を聞いてくれている。何かができる、わかる、ということより、まずそのことに感謝したいと思います」
まだオムツの外れない年頃の子どもたちです。入園早々の時には、泣き声の大合唱だったのに、今のこの落ち着きは何でしょう。あれができる、これができる、という「やり方」(to do)より、座る、待つ、聞く、といった基本の「あり方」(to be)を促した平生の保育の賜物だと思います。

お金を出せば、すぐにサービスが得られるように、私たちは何事にも効果や成果を求めがちです。教育も同じで、塾に行けばテストの点数は上がる、努力すれば必ず結果が出ると信じています。それを否定するものではありませんが、そのような「成果主義」が幼児教育で蔓延ると、大きな勘違いを生むことになります。
コンロにかけたやかんは、外から見れば形状は変わらないが、中ではふつふつと水が沸き上がりつつある。そして沸点に達した瞬間、自ら蒸気を発するのですが、どうも現代人はそれさえ待てず、あれこれ口や手を出し、子ども自身が生きる力を奪ってはいないでしょうか。

子どもは大人の思い通りに生きているわけではありません。子どもは子どもの時間を生きているのであって、とりわけ一番幼い2歳児だから、まず「何をやるのか」より「どうあるのか」を深く感受しています。漢字が読める、とか、英語が喋られるとかは、些細なことなのです。要はそういった知恵のツールを用いながら、どう「生きる力」を育てていくのか、それこそ幼児教育の眼目なのです。
世の多くの哲学者が、存在と行為について述べてきました。もちろん、双方は深く関連しあっており、一方がない状態で一方は育ちません。上の学校に行くほど、教育活動とは「to do」が基本です。だが、敢えて申し上げるなら、それをすぐに成果や評価に結びがちな大人の偏見や盲従を抑えるためにも、いつも「今、子どもたちはどうあればいいのか(how to be)」を問い直す、そんな反芻の機会をたいせつにしていただきたいと念じています。
幼児教育とはもう一度大人が、人間の生きる意味を学びなおす大きなヒントでもあるのです。

 

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