赤色赤光

宗教教育シンポ。「祈り」とは、生きることの余白づくり。

2014年6月11日

  今日、幼稚園で教育シンポジウムを開催しました。賢明学院小学校統括教育監津田 克彦先生と、城星学園小学校教頭亀谷和廣先生のお二人です。

両校に共通するのはカトリックのミッションスクールということ。亀谷先生は、自身 が洗礼を受けられた敬虔なクリスチャンです。シンポジウムのタイトルも『子ども時代の祈りと学び』 ~宗教校園の幼小連携~でしたから、当然ながら「祈り」について各校の取り組みが紹介されました。 学校行事しかり、クラス活動しかり、城星学園では午後、アベマリアの全校放送が流れると、全校児童と教師が手を止めてその場で3分近い黙想をするそうです。
すべてに優先して静かな時間を「確保」すること。大事なことだと思いました。

 両校に限らずどの宗教校に行っても、必ず校門やロビーにキリスト像やマリア像が あります。ただ彫塑が置いてあるのではありません。その前で立ち止まり帽子を取って一礼する。自分より大きな存在に畏(かしこ)まる。わが園の玄関の釈尊図と同じ存在です。「畏敬の念」とは、宗教教育の目的として必ず掲げられます。 『人知を超えた大きな存在に守られ、愛されている』という感覚はその子の一生を支える基盤となると、私もお伝えしてきました。
今日のシンポではそれを確認するとともに、子どもたちにとっての『幸』とも感じたのです。
……校長先生は学校でいちばん偉い先生だ。お父さんもお母さんも尊敬している。何でも答えてくれるし、子どもや先生を守ってくれている。その偉い校長先生が、子どもと一緒になって「祈りましょう」と静かに頭を下げる。 世界には、さらにすごい存在があるものなのだ……

 それを例えるなら、『わかる・できること』の限界を知るということでしょう
か。老病死の苦が克服できないように、人知には限りがあります。役に立つとか便利とか、強いというのは、どこまでも無限ではなく、解決できない世界がある。それを校長先生は「祈ろう」と呼びかけながら、神様や仏様の領域に子ども達を共に預けてくださっているのだと…。妙な言い方ですが、手の及ばないところへ棚上げするような感覚でしょうか。

 子どもも大人もカツカツに詰まった時間を過ごしています。隙間とか弛みとか、あそびがない。 城星学園のアベマリアの時間は、黙想であること以上に学校生活にひとつの軸を通すのではないでしょうか。 「祈り」とは、生きることの余白であり、生涯を生き抜く価値とはそんな「何もな い」時空から生まれてくるのではないか。ふとそんなことを感じたのでした。

 

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