赤色赤光

記憶の中の先生へ

2014年6月22日

この季節、私の幼稚園では若い教育実習生を迎えます。短大であれば2回生、4年制であれば3回生が2週間、割り当てられた教室で子どもとともに保育実習に取り組みます。
今年の実習生の中に、当園の卒業生がいました。短大生ですが、聞けば一旦4年生大学を出て就職したが、先生になる夢捨てきれずまた資格取得のため実習に臨んだとのこと。しっかりした学生でした。
20年以上前のことなので、幼稚園はすっかり変わっていて、さすがに当時を知る担任は在籍していないのですが、総幼研でインストラクターを務めているE先生が「え、あの○○ちゃん?」と気づいてくれたのです。E先生が年少の担任をしていた現役時代、彼女は他のクラスの在籍ではあったけれど確かに記憶に残っていたのです。驚きました。E先生は、「○○ちゃん!」と、実習生の顔を見る前から下の名前を言い当てたのです。

こんな話も聞きました。ある日、実習生のクラスに学園長が訪れ、子どもたちの歌の指揮を買って出たそうです。もちろん、83歳の学園長にはその実習生が誰か、知る由もありません。しかし、彼女にとって、老いてなお指揮する姿は20年前と何ら変わらず、なつかしさに胸が詰まって涙を抑えることができなかったそうです。

いつの時代も少女たちが憧れる花形の職業であるように、すべての園の先生は、自らの意思でこの仕事を選びます。ただ「選ぶ」というのは、今どきのリクルートと少し違う。適性や条件もありますが、多くは何らかの体験、かつて自分が園児だった時代、どんな先生に育てられ、どんな幸福を感じていたか、その原初の記憶に根ざしているように思います。
例えば私も、大学の指導教官の下の名前は忘れかけていますが、半世紀以上前担任してくださった幼稚園の先生ははっきりと記憶しています。何かを教えてもらった、指導してくれた、というより、先生は両親以外に初めて私のそばにいて無条件に寄り添ってくださった人だからです。記憶とは、授けてもらった知識以上に、共体験として子どもの身体に深く滲み込んでいくものなのです。

鷲田清一さんの短いエッセイにこんな一節があります。
「幼稚園の先生はいつもいっしょに歌って踊って楽しそうだったが、学校の先生は音を外すと、動作がばらばらになると顔をしかめる。それを見て、楽しかろうはずがない。教える人はほめなくていい。うれしそうにしていれば、というより心底うれしければそれでいい」(おとなの背中)。

いま、何でも記録が重視されます。子どもの成長といい成績といい、記録がまるでその証拠であるよう重宝されます。しかし、こと幼小教育において、記録以上にたいせつなものは身体に滲み込む記憶であることに違いはないでしょうか。

記録が正確に再生できる事実であるのに対し、記憶とはその人の人生の中で幾度も書き換えられていきます。「きびしい先生だったが、今思い起こすと大事なものを教えてくれた」というふうに、記憶は生涯欠くことのできない物語なのです。
記録は紙にせよUSBにせよ、媒体が尽きれば消去されます。しかし、記憶は一生身体に深く留められる。かつて少女時代、たいせつにしてきた記憶を取り出しながら、今先生となったあなたもまた、誰かの記憶に残る先生になっていく。なんとありがたいことだろう。そんな風に思うのです。

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