赤色赤光

インド式より日本式。教育の選択を間違ってはならない。

2010年1月26日

 早期教育の報道に熱心な「エチカの鏡」で、過日「インド式教育」を特集していました。インド人が知識集約産業で世界的に脚光を浴びていることはよく知られていますが、テレビで驚いたのは、その影響か東京のインディアン・スクール(在日インド人子弟のための学校)に通う日本人の児童が増えているということ。「日本の学校に本物の教育はない」と、保護者のひとりが嘆いていましたが、だから6歳からインド人学校へ通わせるのが「国際人」教育なのでしょうか。正直腰が引けてしまいました。

 そもそも世界の教育は多種多様にありますが、いずれもそれぞれの国の風土、民族、歴史、文化が混ざり合った独自のエッセンスです。その国特有の教育観には、そこに至る長い国民の身体的合意があるのであって、それはいくらモノマネ上手な日本人でも簡単にコピーできるものではない。いや、他国の教育に対するリスペクトは重要ですが、一方で容易に踏み込めないものとして教育的オリジナリティは尊重されなくてはならないと思います。

 ここ数年、教育界は北欧のフィンランドがブームで、視察が絶えません。教育先進国の事例に学ぶことや、そこからわが国の教育の問題点を検証する態度は大切ですが、だから学力を上げたければフィンランドの学校へ行けばいい、とはならない。日本人には日本人にふさわしい教育があるからです。

 インド式だ、フィンランド式だというものの、不思議なことに「日本式」教育に注目する声は聞きません。心身の一体化、型による鍛練、韻律を踏まえた音感等々、寺子屋の時代から引き継がれてきた日本古来の教育の原型を、皮肉にも私たちは忘れてしまっているのではないでしょうか。戦後教育が猛省すべきはその点にあります。日本の教育の問題点は、ゆたかなオリジナリティがありながらそれを「自己喪失」してしまっている点にあると思います。

 もちろん教育の選択は自由です。高校生になってから自分でどこの国の教育を選ぼうが、それを阻む理由はありません。しかし、幼小の時に出会うべき教育は、本物の「日本式」であってほしい。それが、未来の国際人として欠かせないベースとなるからです。

 それを選ぶのは、親のだいじな見識です。

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