赤色赤光

身体から学ぶ。パドマの教育の極意とは。

2016年2月2日

  先月の23日、東京で教育シンポジウムに参加してきました。総幼研とは違う、一般の教育財団が主催、早稲田大学後援のもので、フロアは完全アウエー(?)で少し緊張しました。
シンポは「からだを育てる感覚を磨く」というタイトルのもので、京都大学名誉教授、国立台湾大学教授の辻本雅史先生、田園調布学園副学長生田久美子先生他がご一緒でした。いずれも教育身体論ではつとに有名な大学者でいらっしゃいましたので、こちらは胸を借りる気分でした。
当日の議論はいずれ本にまとめるということなので、そちらに譲りますが、当日私が実践家として発表しながら、子どもの身体についていくつか考えたことがあります。
以下3つの論点を整理しておきます。

1.子どもの身体に異変が起きている。
幼児の身体の異変については、ここでも自律神経失調症、異常体温、足裏等々いろいろ指摘してきましたが、当日は若者たちの「レスポンスできない身体」について述べました。私は一方で應典院で青少年教育にもかかわっていますが、若い人たちの身体が急速な萎縮、閉塞的傾向にあると感じています。自尊感情や他者理解の低下、その裏返しとして自己愛の肥大、つながりたい症候群など、身体の未熟さ、関係構築の劣化などをあげればきりがないでしょう。
国際的な学習調査でも、日本の子どもは「勉強はできる」が「学習意欲は最低レベル」であることはよく指摘されます。スマホ世代にとって、社会や他者と切り結ぶ身体そのものの拠り所がつかみにくくなっている現状があるのではないでしょうか。

2.日本的身体の源流を考える
「心身一如」という仏教の言葉があるように、日本人は心と身体は分ち難く一体のものとして考えてきました。身体を使って、行為で内面を調える生き方をとってきたのです。「体得」とか「血肉化」、「身体に入れる」「身体で覚える」とか身体で学ぶ言葉はたくさんあります。
当日、辻本先生がおっしゃっていましたが、江戸期に日本人の学びは「身体の規律化(礼=型の滲み込み)⇒気の精度アップ⇒心の養成⇒人間形成」の過程を経ました。心は不安定であり、信頼できるのは身体化された知でもあると。
また、生田先生も、「わざ」の習得には、「模倣・繰り返し・習熟という教授・習得法をとり」「外面的な〈形〉の完璧な模倣を超えた、文化的な意味に裏打ちされた〈型〉の習得を暗黙的な目標とする」と述べておられます。 まさに身体にこそ日本的知の原点があるといっていいでしょう。
私は当日、パドマの園児たちの声の身体性についてお話をしました。日課活動の中でも音読・素読が活発に行われていますが、その目的は意味理解ではなく、本を丸ごと身体に埋め込む「テキストの身体化」を言うのです。

3.パドマの教育で「こころの基礎体力」を育む
なぜパドマ幼稚園では、毎日、型のくりかえしをしているのか、またそれは何を目的としているのか。
幼児教育の目的は、人間の基礎・基本であり、言い換えれば「生きることの型」、つまりよき習慣、規律を身体化することです。これは、教科書で学ぶという性質のものではなく、仲間とともに身体の経験を通して、身につけていくものです。ここに幼稚園の集団教育の意義があります。
パドマの総合幼児教育は、まず型の枠取りがあって、そこに子どもたちが自らの身体を埋め込んでいくことで、習慣や規律、規範を育んでいきます。重要なことは上から言われたからではなく、自分たちの身体行為をもって学んでいくというところです。子どもの自律性、主体性を促すのです。
その型の枠取りの代表的なものが、毎日の日課活動です。日課を続けていけば、無意識のうちに、そういう型が整ってきます。型が決まれば一生ものです。「こころの基礎体力」が育てば、他者や社会に対してレスポンスできる柔軟な身体が育つのです。

 以上のようなことを考えながら、パドマ幼稚園の教育実践の本質を改めて認識したのでした。長くなるので、本稿はここで閉じますが、この考察はいっそう深めるに値するものでしょう。
ともあれ、まことに学びの多いシンポジウムでした。

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