赤色赤光

道徳教育を考える。仏教園としてできること。

2017年4月10日

 来年度から実施の決まった道徳の教科化について、いろいろ話題がもちきりです。教科書検定でパン屋さんが怒った(?)という気持ちもわかりますが、文科省のいう「道徳的項目」というのも微妙な違和感を禁じ得ません。

 
 そうせざるを得ないほど、道徳的状況が退化している現状もわかります。家庭や社会の教育力がここまで低下してしまえば、学校をおいて他にない、という危機感の表れでしょう。しかし、「教える」場である学校で、道徳ほど「教える」ことが難しいものもないのではないでしょうか。
 ある識者は、「(道徳は教科にはならない)なぜなら、それは日常の具体的な場面で、その状況に応じた経験のなかで学び取るほかないからである。道徳(モーラル)とは日常の習慣(モーレス)なのである」(佐伯啓思 朝日新聞0408)といい、今日の学校がその状況にないと指摘しています。子どもの習慣の場はまず家庭でこそ育まれるべきだし、日本の先生は細やかな対応ができるほど時間の余裕はないのです。
 
 戦後の教育で、まず否定されたものが宗教教育でした。誤った思想教育は排除されるべきですが、同時に日本人の平均的な宗教的感性も捨て去られてしまいました。これは道徳教育という観点からも大きな損失です。
 「おかげさま」に感謝し、「和合」や「利他」を尊ぶような精神は、仏教の教えから(習慣を通して)学び取ってきたものといえます。四季の移り変わりとともに先祖供養を勤め、また地域の隅々まで広がったお寺の子ども会活動も、いまより遥かに大きな影響力をもっていました。
 このあたりは歴史的な背景があって深く言及することは難しいのですが、少なくともそういう宗教的感性といったものが、日本人の道徳的態度を根っこから涵養してきたことは無視できないと思うのです。人知を越えたところから見られているという感覚。仏あるいは先祖や死者に対する畏敬の念は、「国家」を思うそれと次元の異なるものと言わなくてはなりません。
 
 幼稚園は最初の学校ですが、小学校の予備校ではありません。勉強より生活習慣だし、個人より集団です。テストや評価はありません。学科という概念もない。それよりもまず他者とともに生きることのよろこびと、そのためのルールを「教わる」のではなく、体験を重ねて(楽しく)習慣化していくところに目的があります。
 当園の教室には、それぞれの学年の学期ごとの目標が貼り出されています。年少が「信頼」「協力」、やがて年長の「協働」「自立」というふうに。これを、スローガンではなく、生活の徳目として実践していくのです。
教室には仏壇があり、毎日お勤めを欠かさない。新年度は花まつり行事で始まり、卒業は音楽法要で執り行われている。担任は、子どもたちにどう生きるのか、を語ります。
 家庭には希薄にあった宗教的感性が、3年間の園生活を通して、育まれていくのです。
 
 ですからそれは教科書で教えるものではありません。幼児において、道徳とは仏教を生きることであり、それは担任と子どもたちの協同生活を通して、実践されていくものなのです。
 

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