赤色赤光

信頼できる集団だから、依存できる(わらまんエッセイ②)

2010年10月27日

(エッセイ①23日よりつづく)

7月の後半、年中、年長では1学期の教育活動の集大成として、サマースクールを実施しました。箕面の勝尾寺を訪ね、2泊3日(年中は1泊2日)の合宿生活を友だちと、先生とともに過ごしました。親元を離れ、仲間と寝食をともにし、山から帰ってきた子どもたちは、また一段とたくましく見えたのではないでしょうか。集団の器が、たくましい「個」を育てるのです。

幼児教育の目標は、「個」の発達でなくてはなりません。しかし、「個」は単独で発達するのではなく、好ましい集団の中で、「個」として発達していきます。それを成長させるものが、幼稚園の集団の器なのです。一人ひとりを育てるとは、教師が子どもに対し懇切丁寧に教えるということではなく、「個」を育む仲間集団の勢いであり、高まりであり、そして慈しみの力です。いわばその集団という揺籃の中で、「個」は自分の核を徐々に形づくっていく。ここには、全体と個という、人間社会にとって普遍的な関係があります。

 

本来、「自立」とはひとりだちすることですから、「集団自立」とはじつは反発した言葉です。「自立」の反対は「依存」ですから、世間一般で言えば、私たちは集団への依存を早く卒業して、一人前に自立するよう促される。依存は自立を阻む障碍であり、個人の成長のために、これを払拭しなくてはならないと考えがちです。

しかし、本当にそうでしょうか。そもそも人間は、何かに依存せずに生きていけるのか。とりわけ少子高齢の現代において、私たちは誰かの世話にならずして、生存すらむずかしいのではないでしょうか。

家族や学校や地域など、かつて身近な共同体には、互いを支える相互依存の関係がありました。保育や介護のサービスもなかったが、それでも安心して誰かに依存できた背景には、利害や損得を超えて、すべてを「おかげさま」と喜びあう、互いのつながりがあったからだと思います。そのことは、昔も今も変わらない。
現代において、依存を成長を阻む障碍のように考えるのは、むしろ、人々が安心して依存しあうことのできるつながりが途切れているからだと、私は思います。言い換えれば信頼できる集団・仲間との依存関係があって、やがてその上に個の自立が芽生えてくる。十分なつながりが感じられないのに、闇雲に「自立しろ」と言うのは、逆に個を孤立へと追いやるように思えてなりません。

(つづきは29日掲載)

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