赤色赤光

■子ども中心の社会であるために。川崎の事件に思うこと。

2019年6月3日

6月最初の保育日、空は抜けるように青く、ほどよい熱気が園全体を包んでいました。なんと気持ちのよい朝だろう。毎日思うことなのですが、朝のローテーション、ダンス、朝礼の高まりは、生きることの輝きをひしひしと感じさせます。

5月、子どもをめぐる痛ましい事故・事件が相次ぎました。大津で起こった自動車事故と、川崎市で起こった刺殺事件、どちらも衝撃は大きいですが、とりわけ白昼堂々人を選ばず自死を厭わず、ただ通学バスに乗り込もうとしていた児童を襲うとは狂気の沙汰であり、言葉を失います。いったい学校園はどこまでいのちの安全を担保できるのか、多くの関係者が途方に暮れたことでしょう。学校は「要塞」ではないのです。
国やメディアは、早速地域ぐるみの安全というスローガンをかかげていますが、普段からの地域の良好な関係性がないかぎり、突然思い出したように「地域責任」を言い出しても急場しのぎでしかありません。特に私立の場合、特定校区があるわけではないので、同じ教育観を共有する保護者と協力するしかありません。私たちの子どもたちを、学校園と保護者が協力して守っていくのです。
少子化社会になる程、子どもへの関心は薄れていきます。子どもに慣れない人の中には、忌避感情を強くしている人もいるかもしれません。「子どもは未来の宝」といいながら、そういうごく普通の合意が取れにくくなっていることも、時代の変化を感じます。
そもそも人類の最初から、「共同育児」はありました。誰の子、どこの子に関係なく、皆が子どもを守り、子どもを育てたのです。現代は、子どもをお客に見立てたビジネスはたくさんありますが、子どもが本当の意味で主人公となる社会、子どもファーストな社会であるのかどうか、考えさせられます。

いてもたってもいられず、事件の翌日から通園バスに3日間同乗しました。バス停のお父さんお母さんに対し、改めて安全確保をお願いしますとご挨拶してきました。どの停留所でも、保護者の方々は整然と待っておられ、バスの発車を笑顔で見送ってくださいました。皆同じパドマの子、世界の子どもです。この幸福を奪う権利など、誰一人としてない。しかし、それは安全と危険という、実に繊細なバランスのもとに成り立っているのだということも自覚しなければならない時代なのだと思います。
今ある幸せを当然のものと奢るのではなく、感謝の念を失わず、またそうあり続けるために明日も努力や配慮を怠らない。そういう土台の根っこから、子どもの本当の安全を支えてまいりましょう。

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