赤色赤光

コロナが教えてくれるもの。一期一会を実感する。

2020年6月19日

安全安心とはよくセットで言われるところですが、安全ばかりに気が行くと、安心がおろそかになることはないでしょうか。現在のコロナ禍の影響にあって、よくそんなことを考えます。

ソーシャルディスタンス=「人と人の間をとれ」とは、逆にいえば「相手を遠ざける」「相手とかかわらない」ことを教示しているのであって、それが本当の「安心」につながるのか、教育現場にいて複雑な思いがします。

コロナ発生当初は仕方のなかったことでしょう。何より大事な命を守るため、従来の日常性にこだわっていては安全は保証されないから、ということはよくわかります。しかし、次第に状況も沈静化してきた今、安全優先を強調する余り、ささやかな安心をおろそかにするようなことがあると、少々心配になります。手をつなぐな、といっても、子どもは手をつなぐし、それによって得られる安心は何にも代えがたいよろこびでもあるからです。

いえ、誤解しないでいただきたいのですが、だから安全を取っ払って、なんでも子ども本位にやらせましょうと言いたいのではありません。安全確保は今も重要事であり、子どもには言って聞かせなくてはならない場面もあります。

私が申し上げたいのは、子どもの安心というより、私たち大人の中に、安全を絶対視するあまり、いのちへ敬意や謙虚さが縮まりがちな傾向がないかという自問です。

この度の新型コロナウィルス感染症の拡大が私たちに示したものは、人のいのちのはかなさでした。世界で44万人を超える人が亡くなりました。昨日まで人生を謳歌していた人たちが、わずか1週間後に亡くなってしまう。最期のお別れを病室の窓越しにしかできない家族の悲しみをどう思えばいいのでしょう。生命は有限であり、それは誰も自分の意思でコントロールすることはできない。「いのちの尊厳」について、これほど問われたことはなかったのはないでしょうか。

幼児教育、なかんずく仏教のそれの中核にある教えは「いのちの尊厳」であり、それは「いのちのはかなさ」に気づくことと同義です。とりわけ子どもはかくも幼く、弱い。人の世話なくして生き続けることはできない。言い換えれば、はかなさという出発点があるから、つつしみやはげみに向かって成長してきたのです。そのありように自覚的になることで私たちも初めてわが子の安全を祈り、安心を目指すことができるのではないでしょうか。安全は人から指図されるものばかりではないのです。

コロナを契機に、教育現場にますますテクノロジーが浸透し、人と人のかかわりの意味は変容していくことでしょう。何年後にはどうなる。何十年後にはどうなる。そういった未来予測めいた言辞ばかり目立ちますが、コロナが教えてくれるものは、今ここに生きているという、いのちの絶対性、「一期一会」の実感ではないのか、という気がします。

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