赤色赤光

私を超えた誰かと出会う。涅槃会の日に。

2021年2月15日

今日は涅槃会、お釈迦様が入滅された2月15日です。伝道に生涯を捧げたご生涯の最後の言葉が「自灯明、法灯明(自分を拠り所とし、仏教の教えを支えとして生きよ)」でした。

さて、パドマ幼稚園にはお釈迦様の言葉をはじめ、たくさんの祈りの言葉が音読されたり、掲示されたりしています。古典的なことばが多いので、概して硬い言葉が多い。子どもには難しいものかと思いますが、子どもに与える言葉は、わかりやすく、平易であればいい、という論に私は与(くみ)しません。特に宗教的なことばであれば、ほどです。

子ども時代に出会う言葉は、聖なるものでなくてはなりません。人を煽り、媚び、汚すような言葉とはいずれ嫌でも顔を合わせなくてはならないが、この無垢な時代にこそ聖なる言葉に向き合ってほしい、と願っています。

むろん、美しい言葉、至宝の言葉を幼児のうちに馴染ませるという目的もあります。宗教的情操というねらいもあります。ただ仏の言葉はそういった意図以上に、幼児という生成りの身体に響くことで、言葉が本質的に潜在する「祈り」に気づかせてくれるから、ではないでしょうか。偉人の言葉、というのでは、そうはならない。やはりそこから人知を超えた何かを感じさせるからであって、そしてその心は、幼稚園の小さな仲間たちとの間でこそ通わせるものであってほしい。そう思うのです。

幼稚園の朝は「般若心経」「南無阿弥陀仏」の唱和で始まります。幼児たちがみんなで祈りの聖句を唱える。汚れを知らない聖なる声が響くうちに、一人ひとりが後ろに退いて、ともに願う同じクラスの仲間どうしが立ち上がるのです。まるで修道士や修行僧たちであるような、同行の集団の輪郭がくっきりと教室に浮かび上がるのです。

祈りとは捧げるということです。自我を無に帰すことであり、私という固有の存在を消すといってもいい。現代は自我ばかりが強調され、すべてにおいて主人公であることを求められますが、生を受けて間もない幼い子どもたちだから、それよりももっとたいせつなこと、他者によって支えられ、守られている「共生感覚」のようなものに気づかされるのではないでしょうか。何かしらの利害を共有して成り立つ共同体以前にあって、ただ生身の存在と存在がつながってともに生きることの原初の感覚は、神や仏への祈りを通してしか知覚できないと思うのです。

私は、私を超えた誰かと出会って、本当のわたしになっていく。つながることの難しいコロナの時代だからこそ、余計そう思うのです。

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