赤色赤光

■父の書斎への畏怖。幼児の言語発達と文化環境について。

2021年7月5日

私がまだ幼い子どもだった頃、わが家には足を踏み込んではならない「聖域」がありました。父親の書斎です。薄暗く陰気な部屋でしたが、何よりも私が魅せられたものは、六畳ほどの室内の壁面いっぱいを埋め尽くした書物の海でした。
父は戦中に十代を過ごしました。あの頃の青年は、自分の生死の意味を文学に激しく求めたものでした。自分の青年期の記憶のモニュメントとしたかったのか、戦後になって買い求めた世界文学全集や仏教哲学書がずらりと並んでいました(当時そういった知識の大衆化が復興の象徴でもあったのですが)。憧れというより、私にはその場所は畏怖するに近い、大人だけの聖域に映っていたのです。

話は最近喧しくいわれる読解力に変わります。教科書が読めない、将来、契約書やマニュアルが読めない、それでは国語教育をもっと実用本位にしようとか、いろいろ迷走しているのですが、読解力を云々する前に、果たして子どもたちは(いや大人も)読む、という行為をどのように捉えているのでしょうか。
ネットやアプリが普及して、今やテキストデータは溢れていますが、あれは果たして「読む」ものなのか、そもそも情報収集や交流が目的のテキストはどこまで「読解」されるべきものなのか、私には判然としません。読んでいるというよりサーチしているのであり、必要なところだけをつまみ食いしているようにしか見えないのです。
子どもの言語能力の発達について、家庭の文化的環境の影響が大きいことはよく知られています。学力格差でも問題とされますが、経済的に豊かな家庭と苦しい家庭では、残念ながら語彙力も読解力も明らかな差異が生じます。
同様に「家の蔵書が多いことが子どもの読書量の多さに関係」しており、「(蔵書が多い家庭は)美術館や博物館に出かけることも多く、そういう文化的刺激が子どもの学力の高さにつながっている」ともいいます。その結果は子どもの就学後の言語発達にも影響して行きます。カナダの心理学者ビーミラーは、「幼稚園入園時の語彙レベルが下位1/4に入る子どもたちは、語彙力でも読解力でも」平均並みの子どもに追いつけないばかりでなく、小学校6年生までにその差は「ほぼ3学年分まで広がっていく」と指摘しているのですが、かなり衝撃的なデータです(以上は榎本博明「読書をする子は○○がすごい」)。

だから、ことばの早期教育をやりましょう、と言いたいのではありません。言語能力とはすなわち親から子どもへの「世代間伝達」なのであり、その多くは有形無形の文化環境によるものなのだということです。
今の時代では親の書斎も難しいでしょう。それよりわが子ともっとふれあいたいという親の方がはるかに多い。では、どんなふれあいがあるのか、そこで親は何を語っているのか、あるいは環境的刺激があるのか。そこが肝要でしょう(親が図書館や書店によく連れていった子どもほど読書好きになるデータもあるほどです)。私もまた父の蔵書の燻んだ匂いを、終生忘れることはないでしょう。
幼稚園にも数々の言葉があります。先生は熱意をこめて語りかけ、また至るところに名言や目標が掲示されています。一生の基盤となる子どもの言語能力にとって、最適の環境とは何か。そのための努力を惜しんではならないと思うのです。

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