赤色赤光

■デジタルか紙か。子どもが指でなぞりながら読むわけ。

2021年6月25日

パドマ幼稚園では、たくさんの「読み」の活動があります。詩集、漢詩集、プリントの問いや絵本読みまで、すべて紙の教具を使って展開します。また紙を配り、紙を張り出し、紙に書いたり、指差したり、紙を綴じたりなんともアナログです。
世間はデジタル一色の時代、2024年から小中学校でデジタル教科書の導入という話もあり、果たしていつまで紙教材は健在でいられるのか、このままいくと学校ではタブレット、家に帰ればスマホ漬けという、ペーパーレス化が加速して、紙教材は絶滅するという話も信憑性を帯びてきます。最近、ペンシルバニア大学大学院言語教育学部バトラー後藤裕子教授の「デジタルで変わる子どもたち〜学習と言語能力の現在と未来」(ちくま新書)を読みました。動画やテレビの乳幼児への影響や、デジタル時代の言語能力など示唆に富む内容なのですが、その中に1章丸々さいて「デジタルと紙の違い」が詳しく説かれています。
興味深かったのが紙の媒体が持つ「対話性」(インタラクティブ)であり、子どもが指差ししたり、私がマーカーを引くように、「テクストとの対話」において、デジタルを凌駕するという指摘です。これは紙の読書の身体性、物理性と深く関係しており、「読みのパフォーマンスを上げるためには」「目よりも、手の動きを重視している」こととも重なります。
なるほど園児もまた、紙面を指でなぞりながら読んでいるのですが、それを子どもの読むことの基礎的な身体経験として考えれば、その重要性が際立ってこないでしょうか。そもそも紙だから何かが劣ることはないのです。同書の中にもありますが、音韻認識、文字知識、単語の読みなどのレベルで、紙とデジタルに差はなく、読解力に至っては、物にもよるが紙の優位性が認められるとありました。紙は、滅びないのです。

デジタル教科書の可否を私は論じる立場にありません。ただ早晩そうなるのであるから、就学前の教育において、紙と手の作用(あるいは運筆も同様に)は基本の基本でしょう。そういう所作を一種の技法として、幼い時に身体に染み込ませておく必要を痛感するのです。保育者も親も、ゆめゆめ「身体で読む」経験を消し去ってはならない。そう思います。

子どもは人生の最初期において、手の働きを総動員して文字に出会っていきます。指で紙の上をなぞり、文字を指す。絵本であれば本を手に持って(支えて)、ページをめくっていく。私は今でも読書の際は、重要な箇所にマーカーを引きながら読みますが、それも指先の延長として使っているのでしょう。つまり本やテキストは、常に紙に作用する手の感覚によって読み進められているのだと思います。

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