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幼児期における「快の原則」。身体の可能性に気づくということ。

2021年12月10日

ここ数日、小春日和が続きます。早朝は寒さを感じますが、園庭に出る頃には日差しも暖かく、子どもたちはのびのびと身体を動かします。その楽しさがたまらないというような今日この頃ではないでしょうか。

コロナになって2年近く、子どもたちの身体能力の劣化が指摘されています。いや、すでにコロナ以前から、小学生の子どもの体力低下がいわれており、その要因として幼児期に十分な運動をしていないということも各種調査で明らかになっています。
「ロコモティブ・シンドローム」という言葉をご存知でしょうか。子どもたちの運動器(ロコモ)、体を動かすのに必要な間接や骨、筋肉などが機能不全を起こしている。加齢や運動不足が原因とされ、高齢者に多いとされてきましたが、最近は幼児ら子どもの3人のひとりがロコモの兆候ありといわれています(埼玉県医師会調べ)。幼い体にも「老化現象」が見られるというのです。

体格と運動機能は、比例して発達するわけではありません。現代っ子の身長や体重が向上する一方、体力や運動能力の低下は以前から指摘されています。いえ、早いうちからスポーツに親しみましょう、と言っているわけではありません。日常の動作、例えば「走る」「跳ぶ」「しゃがむ」「中腰」などができないのは、スポーツ以前のことであって、現代の子どもがいかに身体機能を使っていないかを物語っています。

身体を自分の意志で動かす行為は、幼児から児童、青年へと発達するに伴って、高度なものになっていきます。しかし、ロコモの子どもたちは、靴のひもが結べない、鉄棒が握れない、トイレットペーパーがうまく切れない等々、身体を上手にコントロールできにくい。それはスポーツ能力云々ではなく、子どもの生きる力の減退、意欲や気力の低下といったところまで影響が及んでいくのです。

ある心理学者が「機能快」という感覚について述べています。人間は生まれつき備わった機能を存分に使うとき、「快」が生まれるのであって、逆にこの機能を使えないと大きなストレスを感じるといいます。私たちは「歩く」機能を活かすから「走る」のであって、歩くことが気持ちいい、走ることでよろこびを感じる。そこに「快」の原則があります。

そう考えると、どうも現代の子どもの環境には、人間機能以外の「快」に侵されているように思えてなりません。「スマホ脳」ではありませんが、子どもも大人も小さなスクリーンに釘付け状態で、せっかくの機能がありながらそれを死蔵したまま、指先の操作だけが器用になっていくかのようです。園生活の運動機能の「快」とは、運動ローテーションや体育レッスンだけをいうのではありません。先日の遊戯会のダンスもそうであれば、毎日の日課活動で、挙手をする、手拍子をうつ、発声する、すべてが豊かな運動です。存分に言葉とあそび、存分にリズムとあそんでいる時、すべてが「機能快」であって、そこから人間として生きるよろこび、仲間と協同するよろこびの芽が息吹きます。

園生活において、子どもがもっとも子どもらしい場面は、存分に身体を動かしている時以外ありません。そうすれば自然に笑顔がこぼれる。手足が踊る。自分の身体の可能性に気づき、他者と交わる楽しさに浸るのです。
師走となりました。園庭で、数々の「快」が立ち上がる年の瀬に、小さな安堵感を覚えるのです。

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