赤色赤光

失われた時間などない。「今」を生きる子どもたち。

2022年5月13日

コロナとなって3度目の新年度を迎えました。慣れてしまったところもありますが、制限や規制のわずらわしさは相変わらずです。あれもできないこれもできないと、コロナ禍の子どもたちを大人は不憫に思いがちです。
人気作家の辻村深月さんが、新聞にそんな心境についてすてきな文章を寄せていました(日経4/24)。「〝失われた〟時間の中で」というエッセイです。
要約すると、辻村さんの下の子どもが3月に保育園を卒業した。例年のような卒園式はできなかったけど、そんな時ならではすてきな思い出ができた。また、コロナ禍で行事や活動が制限や中止になったけど、それでも運動会しかり、お店やさんごっこしかり、できた行事は「園は子どもに対してできることを最大限考えてくれた。子どもたちも先生も、皆、前を向いていた」。そんな園に向けた感謝の文意なのですが、同業としてそこを自賛したいのではありません。
長いコロナ禍、本当ならできるはずだった経験が失われた、と大人はマイナス失点のように子どもを見ますが、それは子どもに対しいささか失礼なのではないでしょうか。
子どもを主語に考えれば、できた、できないは結果であって、あの子たちはその可否で一喜一憂しているわけではない。辻村さんは、お店やさんごっこの園児たちのいきいきとした様子を描きながら、「大人が思うより子どもたちはずっと身近に「今」を自分のものにしているのだとしみじみ思う。そのたくましさに圧倒される思いだった」というのです。
子どもと大人は異なる時間を生きています。子どもは過去を反省し、未来を計画して生きているのではありません。制限も規制といった負の条件を度外視して、目の前の環境を全力で楽しんでいる。ただ「今しかない自分の時間を、精一杯全力で生きている」のであって、先生や親はその成長を願い、またどこまでも支え続けることが必要なのだと思います。
できないことを大人が悔やむより先に、大切なことがあります。子どもが今、何をやりたいのか、何を欲しているのか、その言葉にならない思いをくみとり、ともにチャレンジしたり、楽しんだりすることこそずっと大事なのではないか。そう思います。

 

 

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