エピソードで経験を語る。幼児教育にとって大切なもの。
2024年2月26日
■エビデンスは万能か
時々ですが、パドマ幼稚園には大学教員から研究協力の要請を受けることがあります。アンケートによる統計調査も多いのですが、最近は測定機器を使ったデータ収集という手法も多く見受けられます。子どもたちの運動機能を体組成計や心拍計で測定すれば、数値結果がはっきり出ますから、結果は一目瞭然です。こういうデータや客観性による研究は流行りのようで、保育や教育の世界にも、エビデンス主義というようなものが浸透してきていると感じます。
エビデンスに基づく教育(evidence-based-education)という考え方が普及してきたのは、「教育の経済化」と無縁ではありません。デジタル化が進展し、説明責任や透明性、あるいは投資効果など、教育の価値をエコノミックな観点から捉えられるようになりました。有名なヘックマン 博士による非認知能力の測定も、そういったエビデンスとして半ば常識化した感があります。
これだけスマート社会になったわけですから、それに異論はないのですが、一方で加速度的に広がるエビデンス主義に対し、ためらいもないわけではありません。大切な子どもとのかかわりについて、客観的論証だけに重きがおかれてしまっては、一人ひとりの掛け替えのない経験が顧みられなくなるのではないか、また数値化されることで比較や競争意識が頭をもたげ、それが保育の現場によからぬ影響を与えないかという不安です。もっといえば、客観性だけで成り立つなら、いずれ幼児教育もAIテクノロジーによって代替可能となってしまわないかという懸念が拭えません。
■観察力と言葉にする力
保育の現場には客観性だけで捉えきれない、たくさんの発見や気づきがあります。ある担任の記録にこんなエピソードがありました。
「運動面ではライバル関係のAとBの男児。跳び箱ではともに高い段数を目指す仲。3学期になって、13段にチャレンジしたAが先にクリア、喜んで私(担任)とハイタッチしたが、続いて跳んだBもクリアして、今度は私そっちのけで、ふたりでがっしりと抱き合い歓喜していた。私は少し寂しい気持ちと、二人をうらやましくも思った」
要約なので詳しいところは伝えきれませんが、ここにはAとBと担任、そして応援しているクラスの仲間のそれぞれの関係が綴られています。ともに生活をしている担任だからこそ、子どもとの心のつながりや、何かが変わったと直感できる瞬間があるはずです。そこから意味や価値を見出す「エピソード記述」は、エビデンスとはまったく異なる経験の捉え方です。最近よくいわれるナラティブ(語り)も同様でしょう。
いうまでもなく「記録」は、子どもの様子や保育士者の気づきを振り返り、省察したりして、保育の質を高める糧となるものです。そこには、子どもやクラスの一人称的な経験が必須であって、データや数値では測れない発達の場面が確かに息づいていると感じます。
今、当園では「主体的な活動」について、いろいろなチャレンジが始まっています。それが単なるプログラムではなく、本当に主体性を備えているかどうかについては、データ云々の前に、子どもに向けての確かな観察力とそれを言葉にする力が不可欠ではないかと思うのです。