赤色赤光

■信心の話。信じて、待つということ。

2024年6月7日

季節はもう初夏。4月の入園から2ヶ月を過ぎて、早くも6月を迎えました。1学期の折返しです。
4月早々には少し混乱もあったかもしれませんが、いまやすっかりパドマっ子、どのクラスもいきいきと園生活が進んでいます。

さて、教育とは、何かをする(与える)営為であることに違いありませんが、たいせつな幼児期の今は、同時に何をしないでいるか、というルールもあります。子どもに命令しない、急かさない、求めない。それは言い換えると、「与えて、待つ」という忍耐を要します。
個性とか自由とかもてはやされる現代では、忍耐は流行らないかもしれません。何でも過剰なまでに与えることをよしとする、大人の勘違いもあります。スマホやS N Sを駆使すればすぐに伝わる、届く。現代人は、待つことが苦手なのです。
では、園生活において、なぜ担任の先生は待ち続けることができるのか。それは、教師たちが子どもの発達を信じているから。今はこうでも、2学期、3学期には、また年中、年長とならば必ず成長していくことを知っているから。信じて、待つ、のです。

信じるとは、つまり祈ることでもあります。着々と目には見える成果はないが、信じて待てば、知らぬ間に育まれていく。毎日の般若心経で、心が育つことも同じです。育てるというより、育っていくのです。ですから、教師には、「自分が」「自分が」という自我欲求ではなく、子ども自らの内的な成長に任せていく「信心」が必要なのです。パドマ幼稚園が仏教園である所以がここにあります。

もう一つ感じることは、お父さんお母さんの気持ちの変化です。子ども同様、初めての幼稚園に戸惑いもおありでしたでしょうが、入園以来、親子遠足、保育参観、教育懇談、クラス会、そして先日のPTA親睦会と保護者どうしの親しさや幼稚園への理解も深まっています。そこから、互いに信じあう道がひらけます。
親が落ち着けば、子どもも落ち着きます。親どうし仲よしであれば、クラスの子どもたちもまとまります。これは園生活のテッパンなのです。

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