赤色赤光

大工の棟梁はなぜ教えないのか。教師の愚直さについて思うこと。

2010年2月27日

3学期の研究保育が終わりました。全クラスの日課を参観しましたが、手前味噌ながらどのクラスもすばらしい。入園・進級にまだ慣れていない1学期の頃から比べれば、その声は自信と充実にあふれています。先生方もまた同様です。先生それぞれの人柄とか個性がにじみ出ていて、畑の土を同じくした花の色のいろいろを感じました。1年かけて育て上げた、教師としてのよろこびを、いま噛みしめているのではないでしょうか。

 

パドマ幼稚園の教育の要諦は「教えない教育」ですが、3学期のいまの実りこそ、まだ若い先生たちが、しばしば「教えたくなる」心を冷静に抑制した自律心と、子どもへの絶対の信頼に育まれてきた賜物であるとも思います。
以前ある新聞記事で、宮大工における内弟子養成の経緯を読んだことがあります。その極意は、ずばり「教えないから伸びる」。職人は頭では考えない、身体から入る、といわれます。この世界で中卒程度の弟子入りが最適といわれるのは、大卒者は身体ができていない上に、頭で考えようとする、説明や効率を求めるからだそうです。封建的とも言える見解ですが、それがきびしい修業を耐える最大の障害にもなるといいます。ここでは近代的な学校教育観が通用しない。

名工として知られる棟梁・小川三夫さんはこう言います。
「教えない、というのは単に教えないわけではない。(弟子が)学ぼうという雰囲気がある中で放っておくということ。現代の学校では、生徒に学ぶ雰囲気がないからこそ、先生が教えざるを得ないのだろう」(読売新聞・08年7月23日)
なぜ教えないのか。棟梁の話とは関係も条件も違いますが、共通しているのは、「子ども(弟子)が自ら育つのを待つ」という姿勢です。望ましい子ども像が、子どもたち自身、自らの修業によって、獲ち得たものでなくてはならない。それが幼児教育の本義であり、そのための主体を育む生活環境の創造と表現が、教師の使命そのものなのです。

そのためには何事も幼児主体、子どもに任せていくという姿勢が基本です。あれこれ指示し、説明し、訓導するということばの多さに反比例して、幼児の主体性は衰退します。当園の先生の、絶対の心得は「教える構えを持たない」ということ。熱心のあまりに、効率よく、苦労少なく、無難に、時に人より早くその目標に近づけようという人為的なはからいが、人間発達の大元を見誤らせるのです。

「教える」「分かる」合理を最優先する現代社会において、「教えない教育」とは言うに易く、行うにじつに難儀なことです。当園の先生たちの子どもに対する絶対の信頼、そしてたゆまぬ勤勉と誠実、そして愚直さがそれを実現しているのです。
名工のものづくりの技量は、師匠の背中で学ぶ、近くでずっと見ている以外にないといいます。そういえば、わが園も保育室では、子どもたちは純粋なまなざしで全身に写し取るように先生の一挙手一投足を見つめている。つまり、教室における子どもと先生の関係は、合わせ鏡のような「共作用=共育」のモデルなのです。

(わらべまんだら08年12月号の拙稿をアレンジしました)

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