赤色赤光

菩薩の慈悲を注ごう。幼児虐待に思うこと。

2010年8月24日

 この8月、まるで熱帯の国に迷い込んだような、酷暑となりました。

 暑さ以上に惨い事件が起きました。西区のマンションで、ふたりの幼子が若い母親に置き去りにされた無慈悲な事件です。猛暑の中、食糧も水も与えられず、狭いマンションに放置され、けれど母を想い、その名を呼びながら、亡くなった幼いいのち。この夏は、いつもにも増して幼児虐待の悲しい報道が目につきました。

 虐待の裏には、子育てを放棄する親の存在があります。「言ったとおりにできない」「自分になつかない」「泣き声がうるさい」など些細なことで、わが子をペットのように扱い、しつけともっともらしい言い訳をしながら虐待はエスカレートする。「子どもが子どもを育てているような感じ。親が子ども以上に我慢ができない」と、虐待事件を扱った警察官は、若い親たちの幼児性を指摘します。あまりにイノセントな親の増長ぶりに、言葉を失います。

 しかし、ここで若い親を断罪しても、虐待はなくならない。ある育児雑誌の調査によると、「育児にストレスを感じる」親は全体の8割、自分の行為が「虐待かも」と感じた親は3割といいます。虐待する親は、例外なのではなく、現代の親ならば誰にも潜在する暗い感情なのかもしれません。少子化や家族の縮小、人間関係の希薄化など、その社会的要因はいくらでも挙げることはできますが、だから、何もかも社会が悪い、と言って済ますこともできません。

 西区の放置事件の母親は、誰一人子育ての悩みを誰かに相談することがなかったといいます。世間に育児サークルはたくさんありますが、こうした輪に入れずに「自分だけ悩んでいる」と孤立感を深める母親も少なくありません。身近に支えとなる理解者がいないのです。もし友人の誰かが、もし近所の誰かが、もし通りかかった誰かが、もう一歩踏み込んでいれば、未然に防げた事件もあったはず。ですが、最近、多発する幼児虐待事件の根底に、「行政任せ」のまま無関心を決め込む、市民感情が見え隠れしています。近所のことにあれやこれやと口を出し、気をもんだ、「おせっかい」の姿はもう時代遅れなのでしょうか。

 今日、幼稚園は夏の終わりを告げる地蔵盆の行事の真っ最中です。そもそも地蔵盆とは、子どもの守り神であるお地蔵さまに加護を祈るのが由来であり、子どもが主役の仏教行事です。ひろく知られた伝説によれば、地蔵菩薩が、親より先に亡くなった子どもが、賽の河原で苦しむのを救うという伝承に依っています。
地蔵菩薩にとって、どの子もみなわが子であって、関係のあるなしに限定されません。子どもを救うのは、地域社会の希望を支えることと同じです。また今は、虐待を未然に回避するためにも、若い親たちに手をさしのべることもたいせつな救いとなるのかもしれない。そのために、皆が少しの関心と行動に努力を惜しまない。それは、社会全体に、菩薩のような慈悲を注ぐことと同じだと思います。

 提灯の下を踊る、浴衣姿のかわいい子どもたちを見ていて、ふとそんなことを感じました。
 

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