赤色赤光

いのちは一体誰のものなのか(わらまんエッセイ)

2010年10月25日

当園広報紙わらべまんだら秋号に掲載の園長エッセイを今日から3回連載します。

  どこかの熱帯の国に迷い込んだような、猛暑が続いた今年の夏でした。子どもたちにとって楽しい思い出いっぱいの夏休みでしたが、私には幼い子どもが親の虐待によっていのちを奪われる、痛ましい記憶が心に闇のような印象を残しています。
わが子をペットのように扱い、しつけともっともらしい言い訳をしながら虐待をエスカレートさせる。中には父母が揃って、虐待に加担していた事件もありました。幼子を密閉したマンションに放置死させて、自分は外で遊びほうけているとは……慄然とさせられます。役所や近隣も異常に気づいているものの、そういった親は決まって、「うちの子どものことに、他人が口出ししないでくれ」と、外部の関与を頑なに拒みます。
いったい「いのち」とは誰のものなのか、と暗澹とした気持ちに襲われます。

 「いのち」を、「生命」とも書きます。生命力とか生命維持というように、生命は本来固有のものであり、権利であると私は考えます。しかし、ひらがなで書く「いのち」とは、自分の意思で自律できるものではなく、もっと大きなところからのまなざし、固有の存在を超えたはからいを意味します。人は、自分の意思で生まれてきたわけではないし、自分だけの力で生きているのではない。家族でも親子でも、その「いのち」の不可思議に例外はないのに、それを己の所有物のごとく考える風潮が蔓延していると感じるのは私だけでしょうか。

 人間は、私とあなたという二者関係だけに生きているわけではありません。自他という二点の頭上には、もうひとつ彼方から見つめるまなざしがあって、それを昔から先人たちは「他力」と呼んで尊んできました。人間の関係性を超えた、自他の意思ではどうにもならない、大いなるはたらき。仏の絶対他力によるはからいを、私たちは「おかげさま」と言って、暮らしの知恵の中に植え込んできたのだと思います。
この「いのち」に対する感覚の基礎は、幼少期にこそ育ちます。学校教育の中で教科書とカリキュラムで教える、というものでもありません。私が常々「畏敬の念」と言う、「大きなはからいに応える」「天上のまなざしに従う」ような感覚は、これからの人間信頼の絶対を培養していくのであって、これはけっして「お任せ」でも「あきらめ」でもない。

 むしろ私が気がかりなことは、その「いのち」の感覚を喪った現代人が、逆に自己中心的な世界に逃げ込んでしまっていることです。家族や親子関係のつながりを自ら断ち切り、孤立というブラックボックスに封じ込められているように見えます。
(つづきは27日掲載)

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