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体育ローテーションは全身のあそび。体育指導のパラドックス。

2012年5月21日

5月13日のNHKテレビで、子どもの運動能力と体育指導の関連についてニュースが紹介されていましたが(東京学芸大学、杉原隆名誉教授)、これには驚きました。世間では体操教室やスポーツクラブが花盛りですが、9000人の園児達を対象に調査した結果、それよりも何もしていない子どもの方が運動能力は高い、という結果が出たというのです。
調査は、園児の基本的な運動能力6項目について、30点満点で行われ、週2回以上体操の指導を受けている子どもが男18.3(女18.1)に対し、指導経験のない子どもが19.4(19.5)となりました。指導すればするほど、運動能力は低下するのです。これには驚きました。
しかし、何故?という分析を聞いて納得もしました。一つの運動をくりかえし与える指導は幼児の発達には合っていない、動きの種類が限られてくる、できない子はやる気を失う、待ち時間が長く退屈する…なるほど、ありがちなことです。高度なマット運動を努力してできるようになっても、それが全身運動としてふさわしいかどうかは別問題なのです。
杉原名誉教授は、だから「全身運動できるあそびを取り入れるべき」と述べておられましたが、では、それはどんなあそびなのでしょうか。テレビでは、いわゆる自由あそびを取り上げていましたが、果たしてそれだけでしょうか。

フィールドアスレチックのような園庭があれば別かもしれませんが、多くの幼稚園、保育園では子どもの遊び場には一定の限界があります。そこで、どう「安全に」「効率よく」全身運動をするのか、考えてみれば自由あそびといっても、子どもの資質や緩急がたいせつになってきます。腕っ節のいい子がわがもの顔にふるまいますと、けんかや粗暴が始まります、おとなしい子は恐れをなして、群れあそびに興ずることはできません。群れ遊びにもそれなりのルールがなければなりませんし、まず仲間と喜んであそぶという子どもの資質が十分育っていないと、本当の自由あそびは活かされません。「全身運動できるあそび」といっても、園庭に放っておけば自然にできるようなものではけっしてないのです。
当園の体育ローテーションは、特定の運動能力をつけるための「体育指導」ではありません。全身的な運動機能のゆたかな発達を願うならば、運動種目もまたある種の技量に偏ってはならないのです。改めて言うまでもありませんが、いろいろな器具を配置し、多岐に亘る運動を体験しながら、心身ともにたくましい人間形成の基本づくりを目指していくのです。「できるようにしよう」と体育指導の構えが入れば、たちまち子どもたちは反発することでしょう。
もうひとつ、体育ローテーションに限らず、私たちが実践を通して育みたいものは、目に見える成果ではありません、跳び箱を次は8段、9段と高次を求めていく活動ではないのです。それを目に見える「顕型の教育」というなら、私たちは身体の活動を通して、励みの心という、どのような活動においても芯となる「潜型の教育」を目指しています。今、目には見えないが、子どもたちの身体の中に宿すものをじっくりと醸成じているのです。
朝の日光を浴びて行うリズム運動は、元気の源であるセロトニン神経を活性化することもすでに実証されています。そこで育まれたものは、今後の子どもの人生において、何事にもチャレンジできる意志や意欲のエネルギーとなることでしょう。それをして幼児教育の使命というべきであって、「体育指導」しても運動能力がつかないのは、それが「学力」であるかのように狭い領域に閉じこめてしまった大人側に問題があるといえないでしょうか。

 

 

なお、急いで付け加えておきますが、パドマ幼稚園にも「体育指導」はあります。跳び箱もどんどん跳べるよう指導しています。が、これは、そこだけに特化した専門活動ではなく、平生の体育ローテーションにおいて養われた運動能力の基盤があってこそ実るものであることを強調しておきたいと思います。むろん、これは体育ローテーションだけでもありません。幼児のたくましい心身は、日課や抒情歌、音読など園教育における「動き・ことば・リズム」の全体像の中から芽生えてくるものなのです。

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