赤色赤光

■日常と非日常。ありのままを見守る。

2018年9月13日

夏過ぎて、爽秋の候となりました。

ふりかえれば、今夏は天災続きの季節でした。6月の地震、集中豪雨、熱中症、そして先週の台風。記録的な暴風雨によって、幼稚園前の街路樹もなぎ倒され、生国魂の緑はすけたような状態となってしまいました。息つく間もなく、また北海道で地震。私たちはまさに災害大国を生きています。

自然の脅威は突然襲来する非日常です。日常の平穏を食い破り、私たちに生命の危機を感じさせる。その恐怖が増すほど、無事であることがなんとありがたいことか、思い知るのです。決まった暮らしがあること。まず家族や友人が無事であること。末期患者にとってありふれた毎日の情景が光り輝いて見えるように、日常の尊さが非日常によって気づかされることがあります。

 

子どもも日常を生きています。教師や保護者はその日常を少しでも質の良いものにしようと様々な働きかけ(教育もその大きな要素です)をするのですが、場合によってそれが子どもにとってとてつもない非日常になることを忘れてはいけないと思います。

「こんな子どもにしたい」「あんなことができるようにしたい」と、親の期待が時にエゴとなって、子どもを追い込んでいく。何でも出来栄えが問われてしまう現代では、ありふれた日常が見失われてしまいがちなのです。

むろんキャンプや野外活動がそうであるように、非日常の体験が、子どもをたくましく育てる面を否定しません。子どもの英語もそうです。しかし、親の過度な願望や思い込みが子どもを押し立て、それこそ日常から追いやってしまう危険性もあるということを私たちは踏まえておかなくてはならないと思います。子供は大好きな親に、ノーとは言えないのです。

 

小児科医として何万人もの子どもたちを診てきた高橋孝雄先生は、あるインタビューでこう答えておられます(毎日新聞9月3日夕刊)。

「本来、人間は赤ちゃんや子どもと接したら、ああ、かわいいなと感じるものです。存在そのものに価値がある。だから生まれてきてくれたわが子の底力を信じ、成長していく姿を楽しみに見守るだけでいい」

子どものありのままを見つめる。存在を丸ごと受け入れていく。そうしていくことで、子どもの日常は安定するし、ひょっとして大人の私たちも心の日常を回復していくのかもしれません。

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