「朝がくると」。何かをしないではいられない。
2013年7月8日

いま年長組で毎日、音読している「朝がくると」という詩があります。
ぐっと胸に来ます。全文紹介しましょう。
朝がくると とびおきて
ぼくが作ったものでもない 水道で顔を洗うと
ぼくが作ったものでもない 洋服を着て
ぼくが作ったものでもない ご飯をむしゃむしゃ食べる
それからぼくが作ったものでもない 本やノートを
ぼくが作ったものでもない ランドセルにつめて背中にしょって
さてぼくが作ったものでもないくつをはくと
たったかたったかでかけていく
ぼくが作ったものでもない 道路を
ぼくが作ったものでもない 学校へと
ああ なんのために
今に 大人になったら
ぼくだって ぼくだって
なにかを作ることができるようになるために
いかがでしょうか。子どもの視点から、暮らしや生活を眺めると、こんな発見に満ちています。考えてみれば、私たちは自分の意思にはよらない無数の思いやりは配慮によって生かされています。大人になるにつれて、だんだんと契約とかサービスとかいう概念に毒されて、無言のやさしさを素直に受け入れがたくなっていくのかもしれません。だから、子どもの時代は、「おかげ」を知るにいちばんふさわしい季節なのです。と同様に、この詩の芯は、最後の3行です。そんなぼくもまた、やがて「なにかを作ることができるようになる」という自覚と決意が私たちを感動させるのだと思います。
いろんなものがお金で買える時代になりました。医療も福祉も、教育だってお金を払えば、よいものが受けられるという「交換」がすべてを支配するようになりました。逆にいうと、思いやりもお金の多寡で決まってしまうのか…いや、そもそも人間は、相手が何もお返しできなくたって、何かをしないではいられなかったはずです。ギブ・アンド・テイクではない、一方的に与える布施の心こそ、私は仏教教育の原点だと思っています。大人は子どものために、そして子どもはやがて大人になってまた次に子どものために…何かをしてもらった「恩送り」は、そうやって世代を超えて受け継がれていくのです。