赤色赤光

人様の身になる。「同事」のこころ。

2009年9月18日

仏教の生き方の規範のひとつに「同事」というこころがあります。その字の通り「(相手と)同じ事をする」意ですが、簡単に言えば自分本位ではなく「人様の身になれ」ということ。相手を敬う、というリスペクトでもあります。

現代の日本社会は、利害や損得であふれています。人間のふるまいがお金とか名誉とか目に見えるメリットと交換になってしまい、「無償の行為」が死語になりつつあります。「教育」だって、ひょっとして将来のわが子のための投資という見方ができないでもない。
無償の行為といえば、ボランティアを思い浮かべます。95年の阪神淡路大震災で私は人生観を大きく変えますが、その要因となったものは、無名のボランティアの「求めないこころ」でした。何かしてあげよう、助けてあげよう、という奉仕の精神ではなく、何も求めない無為の境地に立ってこそ、人ははじめて「人様の身になれる」と理解できました。

教育はもちろんボランティアではありません。が、私たちは、子どもの将来のため、子どもの成長のためといいながら、ある面、子どもたちの今から遠ざかってはいないでしょうか。無垢、純真、健気、素直…そういった子どもの真心は、将来になったから芽を吹くものではありません。

「幼稚園の先生」にとって、いちばんたいせつなことは、知識や情報を教えたり、成績を上げること以上に、いつも子どものそばにいて、今日一日の師弟の関係の中に生きるよろこびを取り結んでいくことだと思います。共感、共鳴、共体験こそ、同事のこころそのものなのです。

子どものため、子どもを思って、と言う限り、それは子どもと同じ立場ではないのかもしれない。もっと目線を低くして、腰を落として、謙虚に自分をふりかえりながら、自分と子どもとの関係を見直していく。そういう愚直なまでの見つめなおしを通して、私たちは本当の教育者としての入り口に立てるのではないかと考えています。

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