赤色赤光

子どもと身体とことば。江戸学から幼児教育を考える。

2012年6月18日

先週末の保護者参観で、京都大学名誉教授辻本雅史先生をお招きして、教育講演会を開催しました。辻本先生は日本の近世の教育がご専門ですが、いわば江戸学を通して見た当園の教育のエッセンスについて貴重なご示唆をいただきました。
冒頭から貝原益軒の「和俗童子訓」を引用して、予めする教育(幼児教育)の重要性をご指摘いただいたのですが、もっとも共鳴したのは、言語の習得課程こそ心の形成過程であり、音読や素読はいわば「心の容れ物」として昔から役割を担ってきた、という部分でした。
江戸時代、素読は学問の基礎でしたが、幼児の段階からすでに四書(大学・中庸・論語・孟子)を音読暗唱したといわれています。中身は中国の古代古語であり、むろん幼い子供の意味はわからない。意味を解釈するより、音読・素読しながら、声の響きや抑揚、リズムを通して、孔子の言葉を身体に埋め込むことを目的としていました(辻本先生は「テキストの身体化」と説明されています)。
心と身体が別々にある、というのは、西洋の考え方です。日本をはじめ東アジアには、
心は身体活動の一部であり、まず身体ににじみ込むこと(習慣化)で高い人間性を形づくってきたたのです。私はその根幹にある、「気」の思想にたいへん関心をおぼえました。
 

さて、当園の幼児教育も、その原理は日本式の幼児教育においています。 音読・素読の理論はまったく江戸時代そのもので、幼児には理解困難なテキストを用いているのも同じ考え方によります。声を出すこと、腹式で息をする、立腰する…すべて素読は身体活動を伴います。大事なことは意味の説明より、リズム・テンポ・くりかえしを通して、これを身体に埋め込んでいくことで、これが子どもの将来の思考の型、コンピュータでいえばOSを創り上げていくのです。心はその後、自ずと育ってきます。

幼小教育の世界でも、やれフィンランド式だ、インド式だとかまびすしいことですが、風土も文化も異なる教育観を持ち込んでも上手に反応できません。日本には先人たちが積み上げてきた立派な教育技法があるのです。そのことを教育の専門家はもっと識り、もっと説明を尽くしていかなくてはならない、とも思いました。
フィンランドでもインドでもない、パドマ幼稚園は「日本式」幼児教育なのです。

 

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