食は祈り。仏教食育のこころ。
2026年5月18日
1学期恒例の入園児保護者のクラス会が終わりました。6クラスおおよそ160名の保護者の方々に参加いただきました。そこでは給食の試食会も兼ねているのですが、園児同様、手を合わせ、園長主導のもと、ご一緒に食作法を経験していただきました。パドマの仏教食育は、食の素材や調理だけではありません。まさに「祈りの食事」なのです。
日本人の食生活もすっかり欧米化しましたが、もともと私たちの先祖は、穀物と野菜、味噌汁という一汁一菜の粗食の文化を保ってきました(粗食とは粗末な食事ではなく、食事の基本という意味です)。
日本人は器を手にもって食事をとります。食器を手に持つ文化は他の国々にはほとんどありません。むろん居住や座法という影響もありますが、もっとも大事なことは日本人にとって食べることが「いただくこと」、つまり「祈り」と同義であったからです。
文法上は「食べる」の謙譲語ですが、「いただく」には、「敬意を表して高くささげる。頭上におしいただく」という意味があります。「食べる」のは自分ですが、「いただく」のは誰かから授けられたからです。「いただきます」という挨拶はそこに由来します。
日本人は元来、過剰な食物摂取を好まなかった。むしろ、食に求めたのは、作法であり、祈りでした。
尊いいのちをいただく畏れと敬い。そもそも他者の命を奪い、それによって生き延びるという畏れが感謝となり、また食を分かち合う仲間(家族や同級生、同僚など)への感謝があり、さらに調理してくださる、お世話していただく、収穫していただく、お陰への感謝となりました。過剰な肉類を慎み、過食を戒め、また食作法を重んじる伝統様式が生活の中に定着していたのです。仏教の精進料理はその原型を今もとどめる貴重なスタイルといえるでしょう。
今ではそういう考えはほとんど言われなくなりました。そんな作法を引き継ぐ家庭も、学校もほぼ皆無となりました。家族の食は消費的なものへ、学校給食は栄養本位に傾斜していく。いえ、それはそれであってよいのですが、どんなに便利になっても、どんなにゆたかになっても、日本人がなぜ食を「いただいて」きたのか、その真意を忘れてはならないと思います。
パドマの仏教食育の実践項目はこのようにあります。
- 食事の時間は、仏教教育実践の場であり、懺悔と報恩、共生の気持ちを忘れないこと。とくに食作法は静粛に行うこと。
- 食事はマナーを守って、楽しくおいしくいただくこと。
- 食器や箸は正しく持ち、姿勢よくいただくこと。
- 食事中は決まった時間は立ち歩かず、よく噛んでいただくこと(黙食の励行)。
- 食材の成育や、産地、経路など、いのちや自然への興味関心を拡げること。
- 作ってくださる方をはじめ、かかわってくださったすべての方に感謝の気持ちをもつこと。
- 作ってくださる給食の職員の方々と、適宜交流を図ること。
堅苦しいと感じるかもしれませんが、しかし、一生のうち、ここだけでしか経験できない祈りの食があいます。食べることを通して、限りあるいのちを生きることの意味を、心と身体で感じ取ってほしいと願っています。
そのねらいは、食を通してもう一度「祈り」を取り戻すこと。いえ、子どもにとっては「取り戻す」のでなく、これが食の初体験に等しい。人生の最初期にその心を育むことで、いのちを思う、おかげに感謝する、そんな人格を育てたいと考えています。

