赤色赤光

国語でなく世界へ。言葉の源泉に浸かっていく。

2014年1月14日

  あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

 新年の新聞を読んでいて、ある言語聴覚士の話に目が止まりました(産経0104)。脳梗塞や交通事故などで失語症となった人たちに、リハビリを通して言葉を取り戻させていく専門家です。
ある女性患者は「かなと思うの」としか言えない。名前や住所を聞かれても、その一言しか返せない。リハビリも拒み、「かなと思うの」にすべての感情を託してきたといいます。

 「その一言にどんな思いを込めているのか想像を巡らせ、気持ちの中に入り込む。患者さんは誰もが『胸の内側にある声を聞いてほしい』と願っている。相手の真意を汲み取るのは、相手が誰であっても同じこと」と記事の主人公であるベテラン聴覚士は言います。
自分の名前が言えない、ひらがなが読めない、なんでこんなことができないのかと情けなさに腹を立てる。失語者の苦悩は、世界から孤立した自分への絶望でもあります。

 「(だから聴覚士は)患者の一つひとつの言葉や、言葉にならない言葉に耳を澄まし、体から出る言葉の源泉に浸かっていかなければ」……というコメントは、言葉によって紡がれる信頼関係の基底にあるものを指していて、読む者の胸を打ちます。

 世界は失語状態にある。たとえは適切ではないかもしれませんが、そう思います。テレビやネットには情報や知識があふれていますが、それは人と人をつなぐための言葉ではありません。対人で交わされる言葉にしても、効率を高め、成果を挙げるためのものに成り下がり(情報価値とはそういうものです)、親子や恋人の会話でさえ危うくなっているのが現実ではないでしょうか。言葉は過剰にこぼれているが、反対に心は失語状態に陥っている。そう思うのです。

わずかに失語状況から救うものがあるとすれば、それが子どもとの会話ではないかと思います。
乳児が最初の言葉を発した時、親であれば誰でも耳を澄ませ、その自発的な音声を懸命に聴き取ろうとするでしょう。こぼれ落ちた感情語に、わけもなく感動し、親子愛の喜びを噛み締めた体験もあったことでしょう。その心は、まさに「言葉にならない言葉に耳を澄まし」「言葉の源泉に浸かる」ような態度ではなかったかと思うのです。
人生の最初期、子どもの発する言葉にさして意味や解釈は伴いません。ただその言葉の片鱗に埋め込まれた何事か…そこに小さな生涯を賭した「願い」とか「希求」といったものがあるとすれば…にどう応えるかが、親や教師に与えられた最大の使命ではないでしょうか。
幼児期において、言葉は国語以前であるが、国語を超える世界を提示している。
失語者と聴覚士の関係から、われわれが学ぶものは大きいと思います。

 

 

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