赤色赤光

なぜ教室に仏壇があるの。「聖なる中心」を考える。

2014年1月31日

お寺に住職なので、お参りに伺うごとにたくさんの仏壇を見てきました。仏間のあるお家は少ないけど、客間の床の間あたりに仏壇は安置され、そこが家の中心とされてきました。ご先祖様をお祀りして、日々お勤めを欠かさない。そういうお家ほど家庭内は円満で、煩いがないようにも感じてきました。
ところが、現代の家庭から仏壇が消えつつあります。住まいの形態も変わりましたし、家族形態もいろいろなので、昔のままとはいきませんが、それでも家の中心がなくなっていくようなさびしい気がします。家の中心とは、家族みんなが心の拠り所として願いを傾ける場所のこと。そこには、個々の事情や損得を超えた、大きな存在があり、われわれを見守ってくれています。神聖でたいせつな場所。中心があるから家族はまとまるし、家族として深まっていくのです(いまは仏壇の代わりに、大きなテレビがリビングの真ん中に「安置」されていますね)。
幼稚園の生活にも、中心が必要です。パドマ幼稚園の教室には中心たる仏壇があって、子どもたちの拠り所になっています。
仏壇の前で毎朝、お勤めをします。お念仏や般若心経を唱えます。皆が中心に向かって、無心になって願いを振り向けるのです。中心があるから、安心できる。信頼できる。そして、やさしくなれるのです。
中心に向かって、担任の先生もしばしばこう語りかけます。
「よかったね。仏様もよろこんでくださっているよ」
「ごめんなさいって、仏様にもあやまろうね」
子どもも先生も畏敬する尊い存在。「聖なる中心」とは、そういう日々の勤めとはたらきの中から育まれていくのだと思います。これは教室も家庭も同じ。スマートフォンのように家族がどんどん「個別化」していく今、改めて家の中心、学びの中心とは何か、について考えてみたいものです。

 

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