赤色赤光

「苦中楽あり」を見誤るな

2009年2月1日

そもそも幼児にとって何が「楽」で、何が「苦」なのでしょうか。

子どもの「楽しい」もまた大人の勝手な解釈で、「楽」を強いてはなりません。あともう一息で、10段の跳び箱が跳べるというときの輝きに充ちた子どもの顔を、「楽しい」といわずして一体なんと呼べばいいのでしょうか。

「苦即楽」「苦中楽」といわれるように、苦をもって楽となる、苦しみの中に人間としての生きるよろこびを見出していくのが、仏教の肝要でもあります。明治時代から歌い継がれる、一見古めかしい抒情歌を、パドマ幼稚園の子どもたちが歌うのは、そこに目的があります。

現代の日本では、子どもたちの勉強は、「苦即楽」ではなく「苦即苦」の状態にあります。「がんばれ」と親は子の尻を叩くものの、いたずらに知識や技術の注入を焦るあまり、人間の土台としての真の情操の発達を遠ざけるばかりか、むしろ子どもたちのゆたかな成長を阻害していると いえるのではありませんか。このことと、昨今の子どもや若者の形容しがたい犯罪も、無関係ではないでしょう。

当園では、抒情歌のほか、暗誦や素 読の活動に取り組んでいますが、それはけっして憶えるとか理解することが目的ではなく、その営みを通して、子どもたちの人間性の根幹たる機能や感覚を強 化・刺激することがねらいです。ここに、当園の情操教育の基本的態度があります。「学び」は苦しみではなく、本来のかたちを損なわなければ、子どもたちに とってきわめて楽しい行為であるということを、私たちはもう一度見つめなおすべきでしょう。そこにかかわる大人の責任も大きいと思います。

大数学者の岡潔さんは、『情緒と日本人』という名著の中で、こう述べています。

「種子を土にまけば、生えるまでに時間が必要であるように(中略)意識の下層に隠れたものが徐々に成熟して表層の現れるのを待たなければならない。そして表層に出てきた時は、もう自然に問題は解決されているのである」

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