赤色赤光

赤い花は赤い花として輝く。ちがいを認める。

2021年2月1日

多様性、ダイバーシティがいわれるようになり、日本社会にも多国籍化の波が押し寄せています。たとえばテニスの大坂なおみ(父がハイチ出身)、バスケットボールの八村塁(父がベナン出身)、陸上短距離のサニブラウン・アブデル・ハキーム(父がガーナ出身)など、第一線で活躍する日本のスポーツ選手の多くが外国にルーツを持っていますし、人気タレントや俳優の中からも名前をあげていけばきりがありません。

また、両親が日本人であったとしても、その価値観やライフスタイルは人によって大きく異なっています。

お寺に生まれた私にとって、お念仏や合掌、お焼香の仕方、数珠や木魚の用い方は小さい頃からの「常識」ですし、映画館に通って年間50本以上鑑賞することも「普通」のことですが、ほとんどの日本人にとってはそうではないでしょう。一人ひとりがそれぞれ自分にしかない、独自の人生を生きています。

一人というかけがえの存在を、お釈迦様はお釈迦様はご生誕の時に、こう宣言されました。有名な「天上天下唯我独尊」(天の上にも下にも、私という存在はかけがえのないほど尊い)

というような意味があります。無数の一人が集まって社会がある。子ども、大人、学生や高齢者、障害者や病者など、多様性とは、多国籍化だけではないのです。

仏教詩人・金子みすゞの代表作の一つに有名な「私と小鳥と鈴」があります。

この詩を締めくくる、「みんなちがって、みんないい」は多様性の輝きを歌いあげています。私と小鳥と鈴は全くちがう存在でありながら、それぞれが「ありのままでいい」と言っているのです。当たり前のように聞こえますが、「ありのままでいい」とはなかなか思わせてくれないのが、私たちが生きている現代社会の特徴です。こうあるべきだ、もっとこうすべきだ。もっと伸びる、もっとできるという成長信仰があって、それは知らず知らず周囲を圧迫していないでしょうか。

そもそも仏教も「ありのまま」を受け入れる教えでした。

もともと仏教は外国から渡来した宗教であって、それまでの日本は八百万の神々の国、実に日本的に異文化を受容し、習合して、日本特有の仏教をつくりあげました。これも多様性です。

浄土宗の聖典に有名な「阿弥陀経」がありますが、そこに極楽世界の様子を謳い上げる「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」という一節があります。そこで青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放っていて、それが素晴らしいというわけです。一色に合わせるでもなく、それぞれの花がじぶんの役割として異なる色の光を放っている。仏教には、こうした多様性をやわらかく受容する面があります。

しかし注意すべきなのは、「みんなちがって、みんないい」という詩の受け取り方を間違うと、「みんなちがうのだから、それぞれの領分を守ってお互い干渉しないようにしよう」という不干渉・無関心のメッセージになる危険性をはらんでいることにも自覚的でなければなりません。こうした態度から、「あの人が理不尽な扱いを受けても、私たちとはちがうんだから仕方ないよ」と、目をつぶって差別を肯定するまで紙一重です。ちがいを最大限尊重しながら、他者に関わろうとする姿勢がたいせつでしょう。

この詩から見習いたいのは、小鳥や鈴という他者とのちがいを比較しながら、それぞれの存在の尊さに気づいていくまなざしです。先日お寺のお墓を歩いていると、シジュウカラやウグイスの鳴き声を聞きました。まだ早春というには早いけど、そのさえずりは小鳥のラブコールであり、また私の春への淡い期待をかき立てました。

私も鳥も異なる存在です。だから、互いに関係ないのではなく、春の到来を心待ちにしながら胸ときめかせた情感は同じです。自然の中で共感が生まれるのです。

何ができるか、できないか、優劣を判定するのではありません。できないことを認め、できることがあればともに喜びあう。そういう態度をもって、他者に対して関心を持ち、そのかけがえのなさをリスペクトしていきましょう。それは、私が私であることの尊さに気づく大切な感性なのです。

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