赤色赤光

「いただきます」の心。

2010年6月14日

 宮崎県の口蹄疫の災禍が、一向に収まる気配がありません。

 もちろん拡大は食いとめなくてはなりませんが、そのために数万頭以上の家畜が殺処分されると知ると、慄然とします。ましてや手塩をかけて、子ども同然に育て上げた畜産農家のみなさんにとって、まさに断腸の思いと察します。眼前で次々と殺処分される、牛や豚。あまりにむごい。あまりに痛ましい。農家の中には、遺骸を埋める際には、花束を手向けてくれと、係員に託する人もいるといいます。

 改めて、考えます。もとよりこの牛や豚は、人間が食するために肥育されてきたこと、そして私たち人間はその多くの生き物のいのちを食べ、その上に生かさせてもらっている、ということを再認識しないわけにいきません。

 市場経済の社会では、そういった実体は隠されており、店先に並ぶ食肉は、多くは切り身となったパック入りの姿でしかありません。牛も豚もみないのちはあるのですが、消費の世界では、それらは商品であり、食材であり、代価の対象以外の何物でもない。この災禍の最中にも、誰が食べるのか、何段重ねの巨大なバーガーが売り出され、街の話題ともなりました。

 

 幼稚園では給食の際、園児たちは合掌して、必ず「食前のことば」を唱えます。

 「われいまこの清き食をいただきます。与えられた天地の恵みを感謝します。
  いただきます」
 

 食は、商品ではなく、天地の恵みとして授けられたものであるという考え方。そして、「いただきます」とは英語では訳せない独特の言葉ですが、その根底には「あなたの尊いいのちをいただきます」という深い懺悔の念がこめられています。食育の原点は、この「尊いいのちのおかげ」を知ることではないでしょうか。

 仏教では、「山川草木悉有仏性」と、生きとし生けるものすべてを尊ぶ思想があります。にもかかわらず、他者のいのちの上に成り立つしかない、わが身を悲しむと同時に、それを転じていのちへの感謝と慈しみが大切であると教えます。いのちを授けてくださったあなたの分も、しっかり生きていきます、という誓いが横たわっているのです。

 「いただきます」とは、私たちが毎日、いのちに捧げる感謝の花束なのです。

 

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