赤色赤光

皆の中のひとりとして生きている。新学期始まる。

2011年4月12日

 お寺の桜が満開となりました。入園式にはたくさんの入園児を迎え、始業式には子どもたちが元気に登園してくれました。例年通りの光景ですが、私にはそれが何故かふだん以上にまぶしく、尊いもののように見えてなりませんでした。

 

 最近の文科省の発表では、今回の震災で園舎が全壊、流出した幼稚園が11園あり、亡くなった幼稚園の園児と教員はあわせて59名もいたといいます。4月に入って、ようやく卒園式ができたという園もあれば、それを最後に休園、廃園するという知らせもありました。震災孤児も82名。これは阪神淡路大震災を大きく上回っています。つらいニュースが続きます。

 その中で、「すごいぞ、日本」という外国の報道もありました。大きな禍難の中で、規律正しく、秩序を保ち、互いの一体感を失わない。「私たちはまだこの国から学ぶべきことがたくさんある」(NYタイムス)と、外国人は驚嘆と尊敬の念をもって日本人を賞賛しています。この震災はまるで戦争のように不幸な事態だが、そこで発揮される日本人の思いやりや助け合いの精神に、多くの人々は一縷の「希望」を見出しているのだと思います。

 それは日本人のDNAなんだよ、と年配の方はおっしゃるのかもしれません。が、生まれつき誰もがそのような心をもって生まれてくるわけではない。日本の風土、日本人としての暮らしや人間関係を通して、知らず知らず滲みこんでいくものであって、今このような苦境に直面して、それらが思い出したように、浮き上がってきたのかもしれません。

 「教育」とは何だろう、と私は問わないではいられません。自然の脅威を前に、われわれが積み上げてきた知識や技術、学歴などといったものはまことに小さなものであって、非常時に活かされるのは、その人の内部に埋め込まれた人間性の根源でしかない、と感じるのです。例えて言えば、誰かの痛みに反応できる「想像力」、痛みを共有できる「共感力」、あるいは痛みに対処するという「支援力」のようなものでしょうか。

 「幼児教育とは人間の基礎基本の教育」と、幾度も唱えてきました。では、基礎基本とは何か。私は、この事態に臨んで、それが「仲間意識を育むこと」であると強く再認識しています。人間はひとりでは生きていけない。人は皆助け合わなくてはならない。人と人が群れているだけならそれはただの塊ですが、そこに共通の思いや願いが宿すことで、仲間集団となっていきます。仲間とのよい共体験があれば、他者への信頼が生まれ、利他心(思いやり)が育まれていきます。幼稚園とは、そういう人間の基礎基本を耕す、大きな心の田園なのです。

 入園式の翌日から幼い3歳児の登園が始まりました。幼稚園は最初、子どもたちにとって、異国のような心細い場所かもしれない。けれど、そこで先生や友だちと毎日を過ごすことで、やがて「仲間」を発見していきます。皆と自分は別個に生きているのではない、自分は皆の中の一人として生きているという「つながり」を発見するのです。
大震災や原発の脅威に直面して、私たちは日常を忘れがちです。世間がどんな逆境にあっても、子どもたちは自ら育つ。いや、その環境づくりを私たちは怠ってはならないのです。親にも教師にもいちばん大切なことは、目の前の愛しい子どもをしっかりと抱きしめること、それ以外にありません。

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